十字軍とテンプル騎士団=27=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 第6回十字軍 ◆◇

アル=カーミルは、父がスルタンの在位にあった間は、副王つまりスルタンの「代理人」)として父を補佐してエジプト統治に務めた。 1218年、父が第5回十字軍と交戦中に心臓発作で死去したため、後を継いでスルタンとして即位する。 しかし父の死により、崖5回十字軍によってタミエッタ(ナイル・デルタの城砦)を占領されるなど、一時は危機に陥ったが、総力を挙げて反攻に転じ、十字軍を破った。 しかしその後、カーミルの即位に不満を持つ一族やアレッポとダマスカスの総督に反乱を起こされて危機に陥る中で1228年には神聖ローマ帝国フリードリヒ2世が第6回十字軍を率いて侵攻を始める。

しかし、カーミルには十字軍を迎撃する余裕など 下記のごとく 無く、フリードリヒ2世もローマ教皇や教皇派諸侯との争いに集中したかった。 2人は知識人としての交流を書簡によって続けるうち、互いが戦う事を望まない事を知っていたのだが・・・・・・・。

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 1228年6月、神聖ローマ帝国にしてシチリア王をも兼任するフリードリヒ2世は破門のまま第6回十字軍を統率してイタリアを出発した。 しかし破門された皇帝による十字軍に抵抗を感じて、帰国する者も多かった。彼は9月にアッコンに到着したが、ここでも聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は従わず、現地諸侯も協力に消極的だった。 彼がアッコンに寄港したちょうどこの時期、戦わねばならないアイユーブ朝の第5代スルタン・アル=カーミルは統治権で対立していた兄弟の1人であるダマスカスの領主が亡くなり、アイユーブ朝の地盤を占有し、盤石にするのに有利な状況になっていた。 他方、フリードリヒ2世はイタイアを離れる以前から、かねてからのアイユーブ朝とのコネクションを使って予備交渉を行っていた。

がしかし、 目的地に到達するや、交渉相手のアル=カミールは強気の返答を寄こしだし、当初の予測を覆す。 両者間の交渉は難航した。 しかし、アル=カーミルの心中は、モンゴル帝国の脅威=1222年から1225年、ジンギスカンが中央アジアに侵攻しホラムズシャー朝を崩壊せしめる=に対しても脇腹に切っ先を突きつけられていると感じており、西方からの十字軍に勢力を傾けられなかった。 東方に注意を向けねばならず、西方から軍勢を率いて来たフリードリヒ2世とは矛を交わすことなく、交渉での決着を目論んでいた。 また、攻め込んだダマスカスも簡単に陥落しなかったため、1229年2月に“岩のドーム”を除くエルサレム、ナザレ、シドン、ヤッファ、ベイルートを割譲する条件で10年間の休戦条約を締結した=1229年2月11日にアル=カーミルとフリードリヒ2世との間のヤッファ条約=。

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 フリードリヒ2世は平和哩にエルサレムの奪回に成功したが、キリスト教徒側における評価は低かった。 「イスラム側がこれほど弱気なら戦闘で勝利すれば、旧エルサレム王国領全てを取り戻せたかも知れない」、 「最初から馴れ合いであり、十字軍の目的はイスラム教徒と戦うことである」、 「破壊されて城壁もないエルサレム)といくつかの都市を返還されても、これを維持するのは難しい」と言った批判が行われた。 特にローマ教会側は破門皇帝の業績を認めなかったのである。

   しかし、 3月にフリードリヒ2世はエルサレムに入城し、戴冠式を行ったが、エルサレム総司教や聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団の総長は出席しなかった。 皇后のイザベル2世は前年、コンラートを生んだ後に亡くなっているため、王としての正統性も疑わしく、現地諸侯の反応も芳しくなかった。 わずかにドイツ騎士団総長などが出席する中で、自らの手でエルサレム王に戴冠した。

間もなく、イタリアにおいて教皇は破門皇帝に対する十字軍を宣言。 フリードリヒの神聖ローマ帝国に軍隊を侵攻させたため、フリードリヒ2世はアッコンなどに代官をおいて1230年5月に急ぎ帰国の途についた。第6回十字軍は、第1回とならんでエルサレムの奪還という成果にも関わらず、教会から十字軍と認められることもなく、むしろ十字軍を起こさせて終了させるという皮肉な結末となった。

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 カーミルは十字軍側への聖地エルサレム等の返還に同意し、10年間の休戦協定を結ぶと、全軍をアユーブ朝の内紛収拾に向ける。 この為、帝国の内紛は収拾したが、エルサレムを放棄した事で多くのイスラム教徒からの不満を招き、バグダードのモスクではカーミルを糾弾する集会が開かれたという=バクダードな後年にジンギス・ハーンの若き孫に占領される=。 そして、エルサレムに和平が訪れてから9年後の1238年にカーミルは亡くなった。 フリードリヒ2世との交流はカーミルが亡くなるまで続いたという。

  他方、フリードリヒ2世は現地の騎士修道会の中でエルサレムの返還を喜んだのはドイツ騎士団だけであり、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は不快感を示していた。 現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をドイツ騎士団に任せてシチリアに帰国する。 ローマ教皇と闘わなければならない。 帰国に際してアッコに移動したフリードリヒは、数日にわたって敵対するテンプル騎士団の本部を包囲したうえで、5月1日に包囲を解いて密かに帰国した。 その後、イタリアにおけるローマ教皇との争いに忙殺され、再び パレスチナへ赴くことはなかった。

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 ===== 続く =====

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