十字軍とテンプル騎士団=28=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 破門十字軍の後 ◆◇

1230年の晩秋に帰国したフリードリヒ2世はイタリアにおける教皇との争いに忙殺され、再びパレスチナへ赴くことはなかった。 しかしながら、1238年にはシャンパーニュ伯兼ナバラ王テオバルド1世(テイボー)が聖地エルサレムへの遠征軍を率いて行くことになった。 教皇グレゴリウス9世は破門十字軍(第6回十字軍)でのフリードロイヒ2世の成果は敵との妥協であると考え、武力によるイスラム教徒打倒を構想し、公式な十字軍を送ろうとしていたのである。

しかし、計画の大半は頓挫し、テオバルド1世ほかフランスの諸侯による小規模な出陣となった。 この年の3月6日にアイユーブ朝スルタン・アル=カーミルが亡くなりっている。 アイユーブ朝が十字軍勢力との抗争に軍事力を集中している間、イエメンのアル=マンスール・ウマルがイエメンで起きた反乱に乗じてアイユーブ朝からの独立を企て、1229年にザビード(イエメン西部)でラスール朝が創設されていたである。

フリードリヒ2世が帰国して以降の中東情勢は、1230年にアイユーブ家の支配下に置かれていたヒラートがジャラールッディーンによって占領された後、アシュラフはルーム・セルジューク朝(小アジアの雄)と同盟し、アイユーブ朝・セルジューク朝の連合軍はジャラールッディーンを撃破する。 1231年、モンゴル軍の侵入に苦しむカリフ・ムスタンスィル(アッパース朝)はイスラーム諸国に救援を要請した。 メソポタミアのアイユーブ朝の領地もモンゴル軍による略奪の被害を受けていたため、アル=カーミルはメソポタミア遠征を決意、モンゴル軍がヒラートから退却したことを知ったカーミルは進軍を中止し、進路を変えてイスラームの領主マスウードが統治するディヤルバクルを包囲した。

そして、1232年10月にディヤルバクルを占領したカーミルは町を子のアッ=サーリフに与え、さらにヒズン・カイファー城砦を攻略して遠征を終えた。 他方でアシュラフはダマスカスに安定した支配を確立し、アシュラフと配下の将軍たちはエジプトのカーミルからの独立を企てた。 緊張した情勢の中、1237年8月にアシュラフは没し、4か月後に彼の兄弟であるアッ=サーリフ・イスマーイールがダマスカスを継承していた。

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 テオバルド1世ほかフランスの諸侯による小規模なエルサレム派遣軍は、1239年夏にパレスチナに上陸した彼らがほとんど戦うことはなかった。 既にエルサレムや他の領土はキリスト教徒側にある上、休戦が続いており、テオバルド1世らはアッコン(イスラエル北づ部の良港)の宮廷で詩をよんで過ごし、アスカロンで築城をして時を過ごしていた。 彼らはカイロとダマスカスに分かれて戦うアイユーブ朝宮廷の双方から援軍としての同盟を持ちかけられ、交渉によりヨルダン川と地中海の間にエルサレム王国の領土を拡大し、ハッティンの戦い(1187年)以前に匹敵するほどにした。

これは領土的な成果としては第1回十字軍に匹敵するものであったが、現地の政治情勢に乗じた結果でありテオバルド1世の遠征前の意図とは異なった。 1240年末、イングランドからコーンウォール伯リチャードが到来する前に、エルサレムの主導権争いを嫌うテオバルド1世(テイボー)は、パレスチナを去った。 また、グレゴリウス9世の意を受けて遠征したコーンウォール伯も戦うことはなく、アイユーブ朝からの領土受領とアスカロン築城をしただけで帰って行った。

1239年に休戦期限が切れた後、1243年にはフリードリヒ2世が聖地に置いた代官に対する現地諸侯の反乱が起き、フリードリヒ2世の支配は失われた。 さらに1244年、モンゴルに追われて流浪して来たほらズムの一派がエジプトのアイユーブ朝に雇われ、ダマスカス政権の同盟国だったエルサレムを占領し、略奪と破壊を行った。 海岸での争いに没頭してきた現地諸侯は内陸からの攻撃に虚を突かれ、城壁のないエルサレムはやすやすと侵入を許し、聖墳墓や歴代エルサレム王の墓は破壊され貴重品は持ち去られ、キリスト教徒の多くは殺害された。 これをきっかけに西欧では再度十字軍派遣の声が高まり、第7回十字軍が派遣されることになるのだが・・・・・・。

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 教皇グレゴリウス9世の思惑がどうであれ、フリードリヒ2世とアル=カーミルはキリスト教とイスラム教を代表する君主として互いに認め合う学識を交換し合い、戦うことを避けるエルサレム返還の交渉も進めたのである。 1229年2月11日に両者は血を流すことなくヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された。 両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せる案件だった。

しかし、現地の騎士修道会の中でエルサレムの返還を喜んだのはドイツ騎士団だけであり、聖ヨハネ騎士団テンプル騎士団は不快感を示し、権勢欲が蠢くローマ教皇庁内でのグレゴリウス9世は法学者であった。エルサレムに入城したフリードリヒはエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは、教皇に破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日に聖墳墓教会でフリードリヒは自らの手で戴冠するありさまだった。 尚、アル=カーミルの死から12年後、フリードリヒ2世が亡くなり、19世紀にフリードリヒ2世の遺体が学術調査を受けたとき、棺の中の彼はイスラム風の衣装を身にまとい、シャツの袖にはアラビア語で「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」というカーミルに向けられたと思われる言葉が刺繍されていたことが記録に残っている。

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 ===== 続く =====

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