十字軍とテンプル騎士団=31=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 第7回十字軍 ルイ9世捕虜になる ◆◇

ダミエッタ占領後、十字軍側ではナイル川の増水期を間近に控えた状態で進軍を続けるか、待機するかが議論された。 アイユーブ朝のスルターン(君主)・サーリフは十字軍にダミエッタの返還を条件としてエルサレムの譲渡を申し出たが、十字軍を主導していたフランスの王侯は提案を一蹴し、カイロへの進軍を決定していた。 また、ナイルの増水期をやり過ごすことが決議され、後続のポワトゥー伯アルフォンスが自前の経費を費やして率いる支援部隊を先導して十字軍に合流した。 ナイルの減水期を待ったルイ9世は、11月にカイロに向けて進軍を開始した。

一方、サーリフは病を押して出陣し、ダミエッタの南西70kmの地点に位置するマンスーラ(カイロの北東130kmに位置するナイル・デルタの城郭都市)に布陣した。 だが、11月22日/23日にサーリフは陣没する。 サーリフの妻シャジャル・アッ=ドゥッルは軍の士気の低下を恐れて夫の死を隠し、マンスーラに設置された臨時の宮殿には亡くなったサーリフの食事が用意させ、サーリフの筆跡をまねて書かれた偽の命令書が発行し続ける。 シャジャルはバフリー・マムルーク=サーリフが養成していたマムルーク(奴隷)軍団=の長ファリッスディーン・アクターイを北イラクのカイファーに送り、カイファーに駐屯していた継子のトゥーラーン・シャーを呼び戻させた。
アクターイの留守の間、代理としてバイバルスがマムルーク軍団の指揮を執ることを命じる。 また、十字軍に対してイスラーム側はゲリラ戦術を展開し、多くの捕虜がカイロに送られた。 しかし、サーリフが病没した情報はすでに十字軍側に知れ渡っていた。 だが、マムルーク軍はゲリラ戦で待ち伏せ、十字軍との本格的な戦闘に入る。 攻め込む十字軍にとって、壊滅的な打撃を受ける=マンスーラの戦い=が始まった。

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 アシュゥム(Ashmum)に到達した十字軍は、ナイル川を挟んでアイユーブ軍と対峙した。 ルイ9世は渡河に苦慮し、船舶を解体した材木を使用して橋を架けたが、なおも渡河は困難を極めた。 2月8日にルイ9世と3人の弟は現地の人間から教えられた浅瀬を通り、ブルゴーニュ伯と現地の騎士たちを陣営の守備にあたらせた。 テンプル騎士団とソールズベリーのウイリアム2世ドゥ・ロンジェスピー「が率いるイングランドの分遣隊と共に運河を渡った。 十字軍はマンスーラから約3km離れたギデラ(Gideila)でアイユーブ軍に奇襲をかけ、この襲撃によってファフルッディーン・ユースフは戦死した。 奇襲の成功を確信したルイ9世は退却を命じるが、ロベールは反対を押し切り、決死隊を率いてマンスーラ市内に突入していく。

アイユーブ軍は事態の把握と軍の再編に努め、アイユーブ朝の全権を掌握するシャジャル・アッ=ドゥッルはバイバルスの立てた囮計画を承認した。 バイバルスはマンスーラの門を開けて十字軍の兵士を町の中に誘導したのである。 ロベール率いる決死隊は放棄されたように見えるマンスーラに殺到した。 市内に突入した決死隊は四方からバイバルスの率いるマムルーク軍団に包囲され、退路も塞がれている袋のネズミであった。 ロベールは民家の中に逃げ込み、ウィリアム2世は多くのテンプル騎士団員と共に戦死する。

突入した先遣隊290人のうち生存者はわずか5人、アイユーブ軍は戦死したロベールが付けていた紋章を見つけて「ルイ王を討ち取った」と勝利を宣言した。 この“マンスーラの戦い”の2月10日の午後から日没にかけての間に、戦場には1,500に及ぶ十字軍兵士の遺体が棄てられたのである。 ルイ9世は橋の防備に専念するが撤退を余儀なくされ、逃走兵の多くは運河で溺死しいった。

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 翌2月11日よりアイユーブ軍は反撃に転じる。 2月27日にはサーリフの息子、トウーラーン・シャーがシリアから帰国し、艦隊を率いて十字軍の補給路を断った。 このため十字軍は病や食料不足に苦しみ、今度はルイ側から停戦の申し入れを行ったが拒否される。 3月にマンスーラの包囲を解いて撤退を開始した。 十字軍は物資の欠乏と疫病に悩まされ、敗退を繰り返し、同年4月の“ファルスクールの戦い”において追撃してきたエジプト勢に包囲され、全員捕虜となった。 ルイ9世もアイユーブ軍の捕虜とされるのである。 捕虜の総数は一万人を超えるとも言われる。

しかし、解放交渉の途中にエジプト側でクーデターがあり、アイユーブ朝のスルタンが廃され、マムルーク朝が始まっている。 マムルーク朝との交渉により、ダミエッタ等の占領地の放棄と、40万リーブルという莫大な身代金でルイは解放され、5月にはアッコンに向かった。 この身代金で開放されたのは捕虜全体の一部だけで、そのほかの捕虜は奴隷となるか、イスラムに改宗することを余儀なくされる。 そして、解放されたルイ9世は聖地エルサレムへ巡礼の旅に出たのである。

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 ===== 続く =====

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