十字軍とテンプル騎士団=32=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ “マンスーラの戦い”に勝利した後のエジプト ◆◇

1250年2月8日から2月11日にかけての“マンスーラの戦い”に勝利した後、トゥーラーン・シャーがカイロに入り、アイユーブ朝のスルタンに即位するが、やがて継母であるシャジャル・アッ=ドゥッルがサーリフの財産を握って実権を譲らないことから仲たがいをする。 シャーは父の子飼いのマムルーク軍団を信頼せず、その有力者を投獄したり、自身の側近を取り立てたりした。

このため、1250年にシャジャル・アッ=ドゥッルはマムルーク達を動かしてトゥーラーン・シャーを殺害し、名実ともにアイユーブ朝を滅ぼした。 シャジャル・アッ=ドゥッルはマムルークの有力者が王位をめぐって策動するのを退け、バフリーヤのマムルークの推戴を受けて、同年4月に「サーリフの僕、ハリールの母」の称号で自らスルタンに即位した。

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 シャジャル・アッ=ドゥッルは捕虜としているルイ9世ら十字軍の将兵の身代金の受け取り、釈放などの戦後処理を滞りなく済ませ、その統治期間中、エジプトではイスラム世界において君主の支配を示す象徴である君主の名におけるフトバ(金曜礼拝時の説教)や「スルターナ、ハリールの母」と刻んだ貨幣の鋳造が行われた。 しかし、当時もシリアのダマスカスにはトゥーラーン・シャーの任命したクルド人のアミール(太守)、アレッポにはアイユーブ朝の地方君主が存続しており、シャジャル・アッ=ドゥッルの即位は彼らの反対と、女性君主に対する多くのイスラム教徒の反発を招いた。 アッバース朝カリフのムスタアスィムも、女性の即位を非難して、「もし適任の男子がいないのであれば、男子の統治者を我々が派遣する」と申し送った。 このため、7月にシャジャル・アッ=ドゥッルはサーリフのマムルークのアミール(部将)中の最有力者であったアイバクと再婚し、アイバクにスルタン位を委ね、シャジャル・アッ=ドゥッルの治世は3ヶ月で終わった。

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 しかし、もともとバフリーヤの出身ではないアイバクは、やがてバフリーヤの生え抜きの指導者であるアクターイと対立することになり、1254年、自身のマムルーク、クトゥズらの手によってアクターイを殺害した。 アクターイの首級がバフリーヤの居住区に投げ捨てられると、バフリーヤの部将たちはアイバクを怖れてシリアのアイユーブ朝君主のもとへ逃れ、アイバクの政権は不安定になる。 シャジャル・アッ=ドゥッルはこれにより支持基盤であったバフリーヤを失い、また彼女がサーリフの遺産を握って政治権力を掌握しつづけことは、アイバクとの間に確執を深めることとなった。 やがてアイバクはイラン北部の有力な城郭都市・モースルのアミールと姻戚関係を結んで同盟しようとしたことから、アイバクと結婚したとき、アイバクの元の妻を離婚させたほどだったシャジャル・アッ=ドゥッルの嫉妬を招いた。

1257年、アイバクが浴室で密かに刺殺されると、シャジャル・アッ=ドゥッルが陰謀の主であるとみられ、3日後にアイバク配下のマムルークに捕らえられ、彼女は殺害された。 その殺害に関しては、アイバクの子で後継スルタンとなったアリーの生母(アイバクの元の妻)に捕虜として引き渡された後、その女奴隷達によって木靴で叩き殺され、その遺体は城塞の櫓から投棄されたという。 また、アイバクの女奴隷たちがシャジャル・アッ=ドゥッルを殺そうとしたとき、シャジャル・アッ=ドゥッルは気丈な女性であったので、アイバク配下のマムルークに包囲されたのを知ると、宝石や真珠を破棄し、それらを臼でひき潰したとも伝えられる。

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 シャジャル・アッ=ドゥッルは類まれな美しさで、見識があり、抜け目がなく、知性的で、マムルーク軍団バフリーヤを統率する政治的手腕を備えていたとみてよいが、彼女の悪行・非道が西欧有数の大君主であるルイ9世がこれ以上ないほどの大敗北を喫すことを誘引したのである。 しかしながら、 アイユーブ朝のスルタンが廃され、マムルーク朝が始まり、その結果、キリスト教世界の威信は大きく失墜し、さらに十字軍国家を守るべき戦力の大幅な減少を招いたのは歴史の綾であろう。 更に一言追記すれば、これを契機に伸張したマムルーク朝は、十字軍国家への攻勢を強め、1290年のアッコン陥落へとつながる十字軍国家滅亡の引き金ともなっていく。

他方、エルサレムへの巡礼行を終えたルイ9世はアッコンを根拠地にし、マムルーク朝と同盟してシリアに勢力拡大を図ったが、成果は挙がらず苦慮していた。 1254年、ルイ9世はフランスの摂政として留守を任せていた母ブランシュの死去の知らせを聞くとフランスに戻って行った。 以後はフランスの内政とヨーロッパの外交に励むが、エルサレム奪還を諦め切れず、信仰心の篤い彼は1270年に第8回十字軍を率いることになり、あっけなく他界するのだが・・・・・・・・。

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 ===== 続く =====

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