十字軍とテンプル騎士団=33=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 第8回十字軍と聖王ルイの死 ◆◇

1250年3月、ルイ9世はナイル・デルタの城塞都市マンスーラの包囲を解いて撤退を開始した。 無論、攻略目標であるカイロには一歩も近づけなかった。 逆に、追撃してきたエジプト勢のマムクール軍に包囲され、全員捕虜となった。 捕虜の総数は一万人を超え、ルイ9世も捕らわれの身になった。 捕虜の解放交渉の途中にエジプト側でクーデターがあり、アイユーブ朝のスルタンが廃され、マムルーク朝が始まっていた。 マムルーク朝との交渉により、ダミエッタ等の占領地の放棄と、40万リブールという莫大な身代金でルイ9世は解放され、5月にアッコンに向かった。 彼は旅程の途上でエルサレムに立ち寄り、念願の聖地巡礼を果たしている。

以降、ルイ9世はアッコンを根拠地にし、マムルーク朝と同盟してシリアに勢力拡大を図ったが、成果は挙がらず、1254年にフランスの摂政として留守を任せていた母ブランシュの死去の知らせを聞くとフランスに戻った。帰国以後はフランスの内政とヨーロッパの外交に励むが、エルサレム奪還を諦め切れず、1270年に再び第8回十字軍を率いることになる。

第7回十字軍の失敗の後、ルイ9世は内政に励んできたが、健康の不調で先が長くないと感じ、死ぬ前に再び十字軍を起こすことを望んだ。 この間にマムルーク朝スルタンとなったバイバルスは、シリアにおけるキリスト教都市の大部分を征服しており、アッコン、トリポリ等=十字軍国家の一部=がキリスト教側に残るのみだった。 ルイ9世の弟で、ホーエンシュタウフェン朝を滅ぼしシチリア王となっていた野心家のシャルル・ダンジューは、自己の勢力拡大のため、かつてシチリア王国に貢納していたがその後自立したハフス朝チュニジアの征服を提案した。 チュニジアのスルタンは、以前からカタルーニャやイタリアのキリスト教徒との付き合いがあり、キリスト教への改宗も考えているといわれており、ルイ9世はそれを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にしようと考えたのである。

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 しかし、十字軍がチュニジアに上陸すると現地勢力の抵抗を受け、滞陣中に飲み水の劣悪さや暑さにより病気が蔓延しだし、8月にルイ9世が没した他、娘婿のナバラテオバルド2世が帰途シチリアで没するなど、死亡者が相次いだ。 シャルルと王太子フィリップ(フィリップ3世)は10月まで滞陣し、チュニジアとの貿易の回復、キリスト教徒の保護、賠償金等の条件でスルタンと和睦した。 フィリップはフランスに戻り、シャルルは新たに到着したイングランド王太子エドワード(エドワード1世)と共にアッコンへ向かっうことに成る。

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 時代を少し元に戻し、中近東・イスラム世界を俯瞰しよう。 “マンスーラの戦い”の後、スルターンに即位したトゥーラーン・シャーは、バフリー・マムルークたちを追放・投獄し、自身の側近を重用した。 マムルークとトゥーラーン・シャーの対立は深まり、バイバルスはバフリーヤ軍団の長アクターイ、カラーウーンイッズッディーン・アイバクらとトゥーラーン・シャー暗殺を企てる。 1250年5月2日にファルスクールでトゥーラーン・シャー暗殺が決行され、最初にバイバルスがトゥーラーン・シャーを斬りつけた後にアクターイが致命傷を与え、計画は成功を収めた。 そして、トゥーラーン・シャーの死後、バフリー・マムルークに推戴されたサーリフの寡婦シャジャル・アッ=ドゥッル(前節参照)がスルターンとなり、マムルーク朝が成立した。

マムルーク朝成立後、シャジャル・アッ=ドゥッルに代わってスルターンとなったアイバクはバフリー・マムルークを危険視し、1254年=ルイ9世が母の死にて、アッコンから本国に帰還した年=にアクターイを殺害する。この時、バイバルスは身の危険を感じてカラーウーンら仲間とともにエジプトから脱出し、ダマスカスのアイユーブ王族マリク・アン=ナースィルの元に亡命した。 やがてナースィルと不仲になると、バイバルスたちはカラク(ヨルダン中部の城郭都市)のアイユーブ王族ムギースの元に移った。 バイバルスたちはムギースにエジプトへの進軍を依頼するが、エジプトのマムルーク朝との戦いに敗れ、ムギースからも疎まれるようになった。 シリアでの放浪時代はバイバルスにとって辛い時期であったが、「バイバルスは苦境に耐え、決して仲間を見捨てなかった」と彼の人格を後世の人々は称賛している。

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 1258年にモンゴル帝国の王族フレグ(ジンギス・カーンの孫)によってアッバース朝が滅ぼされた後、モンゴル軍の更なる進攻に対して、アラブ世界は恐慌状態に陥った。 ダマスカスのナースィルはモンゴル軍を恐れ、フレグの元に子のアジィーズを派遣して関係の改善を試みたが、フレグはナースィル自らが来朝しないことを詰り、降伏勧告を突きつけた。 ナースィルの宰相ザイヌッディーンはモンゴルへの降伏を説いたが、当時ナースィルの元に亡命していたバイバルスは憤慨してザイヌッディーンを殴り、「あなたはイスラム教徒の滅亡を望んでいるのか」と罵った。 バイバルスはナースィルを暗殺して新しい君主を立てようと図ったが失敗し、仲間を連れてガザに移り、主なき放浪の生活送るが仲間を増やしていった。

一方ナースィルはモンゴル軍と交戦することなく軍隊を解散し、マムルーク朝とカラクのムギースに援助を求めた。 モンゴル軍の侵入に際して、マムルーク朝では将軍ムザッファル・クトゥズが若年のスルターン・マンスール・アリーを廃位し、自らスルターンに即位した。 バイバルスはクトゥズに使者を送って和解を申し入れ、身の安全を保障されたバイバルスたちはカイロに帰還した。 そして、クトゥズから対モンゴル戦の司令官に任じられたバイバルスは、シリアでの迎撃を進言した。

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===== 続く =====

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