十字軍とテンプル騎士団=35=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ バイバルスの躍進と十字軍国家の消滅 ◆◇

バクダードを略奪し、破壊したモンゴル帝国の王族フレグ(元王朝開闢のクビライの次兄)が開いたイルハン朝がイラン北西部のダブリーズを帝都に定めて、イラン高原を中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを統治支配を計っていた。 このイルハン朝は北部にジンギス・カーンの長男・ジュチが封土にしキプチャク・ハン国があり、両国は大蒙古帝国を共に構成し、ペルシャ湾とバルチック海を結ぶ南北の交易路が走り、東西の幹線交易路であるシルクロードがイルハン朝を横断し、キプチャク・ハン国の中央部を草原のシルクロードが東西に横断する。

同族の国とは言え、イルハン朝とキプチャック・ハン国(ジョチ・ウルス)とは南北の交易で利害がぶつかる。 明確な国境を定めていない両国にとって小さいが種々の問題が絶えず発生していた。 イルハン朝は同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムアゼルバイジャンの支配権を巡ってジョチ・ウルスと対立し(ベルケ・フレグ戦争、1262年)、チャガタイ・ウルスとはマー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って対立して行くのだが・・・・・。

地中海東部、エジプトとからシリア一帯で権勢の強化と安定を図るマムルーク朝の諸侯は東に位置するイルハン朝の動向が常に念頭に重く圧し掛かっていた。 ジュチウルス(キプチャック・ハン国)の実質第5代君主であり、イスラーム教の信者であるベルケ(フレグとは従兄弟関係)が治めるモンゴル系国家との同盟は、バイバルスの外交政策で最も効果的なものだった。 1261年/62年、200人のモンゴル人騎兵が家族を伴ってエジプトに亡命する事件が起きる。 バイバルスは彼らを丁重に扱い、住居、官職、イクター(徴税権)を与えた。 好意的な態度のため、翌年にも移住者がエジプトに到着し、バイバルスの治世に3,000人のモンゴル人がエジプト・シリアに移住したのである。

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 亡命者たちからベルケの情報を聞き取ったバイバルスは、1262年末に彼の元に使節団を派遣する。 バイバルスが派遣した使節団と行き違いにベルケから派遣された使節団がエジプトに到着し、イルハン国のフレグに対する軍事同盟の締結が提案された。 バイバルスは使節の来訪を喜び、贈物とベルケの改宗を祝福した書簡を携えた返礼の使節を派遣し、両国の絆を公示する意味合いから、カイロ、メッカ、メディナ、エルサレムの金曜礼拝で読まれるフトバには、バイバルスの名前のすぐ後にベルケの名前が入れられたのである。 そして、1262年より2年以上にわたってフレグはベルケとの戦争に釘付けにされ、バイバルスは対モンゴル戦の軍備を整えることができた。

対抗してイルハン朝は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)と友好を結ぶ。 イルハン朝が東ローマと結んだのには、フレグの母ソルコクタニ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためであろう。フレグはイスラム教にもキリスト教にも寛大であったとも言われる。 フレグはベルケとの戦争の間に、1262年/63年にキリキア・アルメニア王国の王子ヘトウムをエジプトに派兵したが、マムルーク軍はヘトゥムの侵入を撃退した。 ヘトゥムの侵入と同時期にフレグの元からマムルーク朝の将軍に内通を促す密使が派遣されたが、バイバルスは間諜の報告で密使の動きを把握し、密使を逮捕・処刑する。 そして、1263年にバイバルスはモンゴルとの内通を口実としてカラク(現、ヨルダン)のムギースを処刑し、彼の領地を併合した。

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 フレグの跡を継いでイルハン国のハン(君主)となったアバカが積極的な攻撃を展開できない状況を見て、バイバルスは中東に残存する十字軍国家に目を移す。 1261年にキリスト教領主たちがバイバルスに和平を申し出、バイバルスは和平と捕虜の解放に同意した。 しかし、和平にあたってキリスト教勢力に課した条件は実行されず、バイバルスは報復としてナザレの聖母教会を破壊。 1263年4月末には、バイバルスはエルサレムに入城し、キャラバンサライ(隊商宿)の建設、岩のドームの修復を行い、聖地の領有を内外に誇示した。

1265年ごろまではマムルーク朝は十字軍国家に対して散発的な攻撃しか行っていなかったが、キプチャク・ハン国、シチリア、ビザンツとの同盟が成立し、十字軍への包囲が強化されると、1265年よりバイバルスは十字軍国家との戦争を本格的に開始する。 1266年に聖ヨハネ騎士団の支配下にあるサファド(ガラリヤ地方の城郭都市)を攻略、戦後バイバルスは助命の約束を破棄し、2,000人に及ぶ騎士団員を処刑する。 征圧が終わったサファドの城壁には、バイバルスの勝利を記念する言葉が刻まれた。 同年10月にキプロス王国(十字軍国家のエルサレム王国の末裔が統治)からサファド奪回の軍が送られるが、マムルーク軍はキプロス軍を撃退する。

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 フレグの征西においてモンゴル軍に軍事力を提供していたキリキア・アルメニア王国も、バイバルスの攻撃の対象となった。 バイバルスはキリキア・アルメニア王国に従属を促す使者を送るが拒絶され、同年にカラーウーンとハマーのアイユーブ王族アル・マンスールが率いる軍をキリキアに派兵した。 アルメニア軍を破ったマムルーク軍はキリキア各地を破壊し、アルメニアの王子レオンを捕虜とした。 和平を乞うアルメニア王ヘトゥムに対し、バイバルスは領土の割譲とフレグの元に捕らえられている旧友のシャムスッディーン・ソンコル(赤毛のソンコル)の釈放を和平の条件として突き付けた。 和平と王子の釈放を懇願するヘトゥム王は、バイバルスが出した条件は全て受け入れられ、1267年6月にマムルーク朝とアルメニア王国の間に和平が成立した。

そして翌年の1268年には、ヤッファ(テルアビル)、シリアのアンティオキアを立て続けに屈服させる。 16,000人に達するアンティオキアの守備隊を虐殺し、100,000人の市民を捕虜とした。 マムルーク軍によってアンティオキアの町に火が放たれ、深刻な破壊が町を被う。 翌1269年に書簡を携えたイルハン朝のアバカからの使節団がバイバルスの元を訪れた。 アバカは書簡の中でバイバルスのクトゥズ殺害を責め、エジプトへの攻撃を宣言したが、バイバルスは自身が民衆に支持されており、かつマムルーク軍はモンゴル軍と戦う準備ができていると答え、使節団を追い返していえる。

1270年にキプロス島に艦隊を派遣するが、航海中に暴風雨に遭って艦船の大部分が沈没した。 キプロス王ユーグ2世から艦船の乗組員を捕虜としたことが伝えられるが、バイバルスは暴風雨による偶然の勝利は戦闘での勝利に及ばないと意に介さず、嵐に遭わなければキプロス征服は成功していたと豪語した。

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 ===== 続く =====

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