十字軍とテンプル騎士団=36=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

01-15-1

◇◆ バイバルスと十字軍との戦い ◆◇

軍団がキプロス島への航海中に暴風雨に遭って艦船の大部分が沈没し、キプロス王ユーグ2世から艦船の乗組員を捕虜としたことが伝えられ、予期せぬ敗退に帰した強気のバイパルスはキプロス遠征と同じ1270年に、ルイ9世がエジプトに進軍して来る情報が届く。 ルイ9世の進軍を知ったバイバルスはトリポリ伯国の攻撃を中止して軍をエジプトに呼び戻すが、ルイ9世の死を知ると再びシリアに出兵し、難攻不落の城砦であるクラック・デ・シュヴァリエを攻撃する。 テンプル騎士団が守るサフィタ城を陥落させた後にクラック・デ・シュヴァリエを攻撃するが、城内に籠る騎士団の突撃と、堅牢かつ複雑な城砦の構造はマムルーク軍の行く手を阻んだ。 しかし、1271年4月8日、バイバルスが出した偽のトリポリ伯の降伏命令を受け取った城内の騎士団員はトリポリに退去し、クラック・デ・シュヴァリエは陥落する。

他方、ルイ9世の弟で、ホーエンシュタウフェン朝を滅ぼしシチリア王となっていた野心家のシャルル・ダンジュー(前節参照)は、自己の勢力拡大のため、かつてシチリア王国に貢納していたがその後自立したハフス朝チュニジアの征服を提案した。 チュニジアのスルタンは、以前からカタルーニャやイタリアのキリスト教徒との付き合いがあり、キリスト教への改宗も考えているといわれており、ルイ9世はそれを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にしようと考えた。 しかし、十字軍がチュニジアに上陸すると現地勢力の抵抗を受け、滞陣中に飲み水の劣悪さや暑さにより病気が蔓延しだし、8月にルイ9世が没した他、娘婿のナバラテオバルド2世が帰途シチリアで没するなど、死亡者が相次いだ。 シャルルと王太子フィリップは10月まで滞陣し、チュニジアとの貿易の回復、キリスト教徒の保護、賠償金等の条件でスルタンと和睦し、フィリップはフランスに戻り、シャルルは新たに到着したイングランド王太子エドワード(エドワード1世)と共に西ガラリアのアッコンへ向かっうのだが・・・・・。

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 一連の十字軍との戦闘でバイバルスは背信行為に対する非難と勝利への称賛を受け、中東のキリスト教徒はバイバルスを「カエサルのごとき英雄、ネロのごとき暴君」と恐れた。 十字軍に勝利を収めたバイバルスは、投降したキリスト教徒に首に折れた十字架をかけ、逆さにした軍旗を持たせてカイロに凱旋。 十字軍が使用できないように、占領した多くの都市を徹底的に破壊したが、内陸部の重要な拠点であるサファドは補修し、再使用した。 軍事作戦の過程でバイバルスはアッコンのエルサレム王国政府を無視し、各都市のキリスト教徒領主と個別に休戦条約を結ぶ。 一連のバイバルスのシリア方面への進攻に対するキリスト教勢力からの反撃はごく軽微なものであり、重要と言える野戦は発生しなかった。 バイバルスがキリスト教勢力から収めた勝利は、次世代のカラーウーン、アシュラフ・ハリールの治世に達成される十字軍国家掃討の基盤を作りあげた。

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 バイバルスの攻撃に進退窮まったキリスト教勢力はイルハン国に助けを求め、1271年にモンゴルとルーム・セルジューク朝の連合軍がシリアに侵入する。 モンゴル軍との戦闘の合間にアバカ(イルハン朝の第2代ハン)から休戦を提案する使者が派遣されるが、バイバルスはアバカ自身か彼の弟がエジプトに来るよう求め、和平は成立しなかった。 そして、1272年10月にモンゴル軍がシリアの辺境部への侵入を企てていることを知ったバイバルスは、ダマスカスから迎撃に向かう。 ユーフラテス川を渡ったマムルーク軍の船舶と騎兵隊は国境地帯の要衝ビーラを攻めようとするモンゴル軍に勝利を収め、バイバルスはダマスカスに凱旋した。 なおもバイバルスはモンゴル軍の動向に逐一注意し、ビーラでの勝利の後にアバカが進軍を行っている情報を受け取ると入念に軍備を行い、1273年9月にダマスカスに到着したが、モンゴル軍は姿を現さなかったのである。

東方からの侵略は当面の課題から消失したと知ったバイバルスはシリア北部からアナトリア半島地中海沿岸地帯に注目する。 キリキア平定への遠征を考えた。 アルメニア王国がかつて和平にあたって課した条件を履行せず、マムルーク朝に敵対行為を取っていることを非難する。 1275年2月にバイバルスはキリキア遠征に出発し、進軍中にハマーのアイユーブ家、アラブ遊牧民の軍と合流の後、スィス、アダナ、タルススなどのキリキアの都市はマムルーク軍に破壊され、市民は誘拐・殺害された。 キリキア遠征でマムルーク軍は多くの戦利品と人質を得たが、戦利品の分配にあたってバイバルスは自分の分け前を取ろうとしなかった。

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 テンプル騎士団、その財務機関としての発達

軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔が、財務機関としてのものであった。もともと入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。 会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。 巡礼者に対しては、現金を持ったまま巡礼の道を移動する事により起るリスクを防ぐため、自己宛為替手形の発行等の銀行機関のようなサービスも行った。 また現在で言う預金通帳のような書類もテンプル騎士団のイノヴェーションだと言われている。

このように多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。 そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。 パリにあった支部はフランス王国の非公式な国庫といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する経済援助を行っている。 1146年にはルイ7世の命により王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられ、この体制はフィリップ4世の統治時代まで続く事となる。

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 ===== 続く =====

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