十字軍とテンプル騎士団=37=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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❢❢❢ 最後の十字軍とバイバルスの戦い ❢❢❢

1258年にバクダードのアッバース朝を滅ぼしたフレグ率いるモンゴル軍がシリアに進軍すると、キリキアとアンティオキアはこれをムスリムに対する聖戦とみて、モンゴル軍に従ってムスリムと戦いダマスカスとガザを陥落させエジプトに向かったが、1260年のアイン・ジャールートの戦い(前節参照)でモンゴル軍と連合軍はバイパルス率いるエジプトのマムルーク軍に敗れた。 アイユーブ朝を滅ぼしマムルーク朝のスルタンとなったバイバルスは、キリキアとトリポリ=アンティオキアに対する懲罰戦を練った。 フレグ没後の混乱に乗じてバイバルスは1265年北上し、キリキアの諸都市を破壊し再起不能とした。
さらに1268年トリポリ攻撃にかかったが、アンティオキア公とトリポリ伯を兼ねるボエモン6世が篭城の準備をしていると見るやアンティオキアに向かい、たった4日でこれを占領し、全住民を奴隷とするか虐殺して都市を完全に破壊した。 これによってアンティオキア公国は滅亡し、以後、東地中海最大の都市だったこともあったアンティオキアは廃墟の中の一寒村と化し歴史から姿を消した。

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 マムルーク朝の第5代スルタン・バイバルスの元でイスラム側は、ヨーロッパ勢力が支配する地域に攻勢を強めていく。 1268年のアンティオキア陥落はキリスト教のヨーロッパ世界を震撼させた。 特に、バイバルスがアンティオキア住民のすべてを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊したと言う情報がキリスト教圏を刺激した。 チェニジアのイスラム教徒征圧に失敗したルイ9世(遠征途上での病死)の弟シャルル・ダンジューとイングランド王太子エドワード(エドワード1世)がアッコンに向かう。 1270年8月、第8回十字軍遠征へ向かうイングランド王太子エドワード(エドワード1世)に同行してエリナー・オブ・カスティルもイングランドを出発た。 彼らはアッコンに上陸して聖ヨハネ騎士団が牙城するアッコン砦に入城するがイスラム勢力の攻城に苦戦を強いられる。

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 エドワードは負傷し、シャルル・ダンジューはエルサレム奪回にはもともと興味がなく、出発前に手に入れた南イタリアの支配権に基づく、シチリア王伝統の政策である東ローマ帝国征服の野望を抱いていた。 そのため、ダンジューはイスラム勢力と闘うことをさけ、綿密な政治工作を次々と繰り出していた。 東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスによって国を追われたラテン帝国皇帝ボードゥアン2世ド・クルトネーを保護し、さらに彼の息子フィリップと自分の娘ベアトリスを結婚させてその保護者に収まり、1273年にはラテン皇帝の地位を相続した。 第8回十字軍はマムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退する。
以後、レバント(東部地中海沿岸地方)における十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡し、1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここに十字軍国家は全滅していく。 結局、ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。 そして、現代においてもレバントは第三次世界大戦に繋がる火薬庫地帯であるのだが・・・・。

シャルル・ダンジューは早々とアッコンを離れ、アナトリアのラテン帝国に向かう。 エドワード王太子は負傷のままアッコンを離れた。 後の1277年、シャルル・ダンジューは政治工作にてエルサレム王国の継承権を手に入れ、エルサレム王を称したが、エルサレム王国は1291年にエジプトのマムルーク朝によってアッコンを落され、完全に滅亡した。 因みに、エドワード王太子夫妻は4年余りを国外でともに過ごす。 1272年夏にエルサレムでイスラムの暗殺者に毒付き短剣で手傷を負わされるも妻エリナーが毒を口で吸いだすなど献身的な治療をしたおかげで一命をとりとめたという逸話があるが、これはエリナーを美化するための創作で史実ではないといわれる。 彼女と王との仲は極めて睦まじく、16人の子が生まれたが、成人したのはそのうちマーガレットエドワード2世エリザベス他4人だった。

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 1272年11月16日にヘンリー3世が崩御したとき、エドワードは十字軍からの帰途の途中でアルプス山麓にいた。 そして11月20日の父の大葬の日に外国の地からイングランド王位の継承を宣言し、母エレナーを摂政に任じ、自身は帰国を急がず、ガスコーニュの安定やフランドルでの貿易問題解決のためのフランス王・フィリップ3世との交渉を続けた。 =フィリップ3世は1270年に父と共に第8回十字軍に参加してチェニジアに遠征するが、父の病死によりフランスに戻り、即位しており、野心家の叔父シャルル・ダンジュー(シチリア王・エルサレム王)の操り人形といわれた= エドワードは、それらの目的を達したのちの1274年にようやくイングランドへ帰国し、同年8月13日にウェストミンスター寺院で戴冠式を行った。

このようにのんびりと王位継承を行ったことはエドワード1世の王権が極めて安定していたことを意味しており、内乱終結後は国王の強い指導力のもとに国王と諸侯の関係が極めて緊密になって行く。

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 ===== 続く =====

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