十字軍とテンプル騎士団=38=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 十字軍撤退後のレバント世界、バイバルスの最後の遠征 ◆◇

1275年から1276年にかけて、マムルーク朝はスーダンに勢力を広げる。 バイバルスは地中海の南岸沿いに勢力を拡大していった。 アフリカ大陸の北部はイスラム世界で在り、イベリア半島がイスラム勢力下にあった時代は遠い過去ではない。 1272年にヌビアのキリスト教国家マクリアの王ダーウドがエジプトに侵入し、アスワン、アイザーブが襲撃を受けた。 アイザーブの襲撃はマムルーク朝の交易・巡礼者の往来を妨げる恐れがあり、1273年にバイバルスは小規模の討伐隊を派遣したが、エジプト南部の国境地帯を平定するだけに留まった。

ダーウドによってマクリアの王位を奪われた王侯シャクンダがマムルーク朝の支援を求めてカイロを訪れると、1275年冬にバイバルスは大規模な討伐隊をヌビアに派遣し、ダーウドはマムルーク軍によって追放され、復位したシャクンダはマムルーク朝に臣従と貢納を誓った。 エジプトの南部域、ヌビア全土が初めてイスラームの影響下に置かれたが、バイバルスは誓約の履行とシャクンダの動向を怪しみ、再三密偵をヌビアに送り込んでいる。

1276年7月、内訌に敗れたルーム・セルジューク朝の貴族がダマスカスに亡命し、彼らはバイバルスにルーム・セルジュークへの出兵を進言した。 閲兵と軍事訓練を終えた後、1277年2月にバイバルスはエジプトを発つ。 バイバルスはルーム・セルジュークのモンゴル支配からの解放を遠征の名目として掲げたため、マムルーク軍は進軍先の住民に危害を加えなかったが、アルメニア人をはじめとするキリスト教徒には厳しい迫害を行いつつ、マムルーク軍はルーム・セルジューク・モンゴルの連合軍が陣を敷くジャイハーン河岸を目指した。

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 4月16日にアブルスターン平原でマムルーク軍はモンゴル軍に遭遇する。 両軍は激突=アブルスターンの戦い=し、マムルーク軍は勝利を収めた。 更に東進し、カイサリアに入城を果たしたバイバルスは市民から歓待され、セルジューク朝のスルターンとして迎え入れられた。 しかし、バイバルスの予想に反してモンゴルの報復を恐れるルーム・セルジュークの領主たちからの支持が得られず、1277年4月28日にバイバルスはカイサリアから撤退する。 帰還途上でアブルスターンを通過した時、モンゴル軍が自軍の兵士の遺体を埋葬しているのを目撃している。 モンゴル軍は自軍の損害が微少であると信じさせるためなのであろうか、バイバルスは蒙古軍団の規範を称賛している。

因みに、バイバルスはエジプト・シリア間を中核に駅伝(バリード)制度を整備していた。 数10kmごとに駅舎を置き、街道沿いに住むアラブ遊牧民には駅舎に置かれる馬の提供を義務として課した。 このバリード制度の利用により、700km超の距離があるカイロ・ダマスカス間を4日で移動することが可能になり、危急の時には伝書鳩で警告が伝えられた。 この制度によってバイバルスはカイロに留まりながらもモンゴル軍のみならず、各地の総督の動きも察知していたのである。
中央集権制度の確立、アラブ遊牧民への統制を強化した点において、バイバルスが制定したバリード制度は、ジュチ・ウルスと軍事的協定を取り結んだ折に蒙古帝国が創始して有用していた駅伝システムを導入していたのである。 このバリード制度はバイパルスの中央集権制度の確立、アラブ遊牧民への統制を強化した点においてまことに重要な意味を持つており、彼をして、少数のモンゴル族が幾数十倍異民族を統治支配する蒙古帝国の根幹を知っていたのであろう。

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 1277年6月8日にダマスカスに帰国したバイバルスはクミズ(馬乳酒)で祝杯を挙げたが、急に腹痛に襲われ、間もなく没した。 死因は過度の飲酒なのであろうが、毒殺とも考えられている。 バイバルスの遺体はダマスカスに埋葬されたが、軍の反乱を防ぐために彼の死は秘匿され、カイロに戻る軍列の中にはマムルークたちに護衛されたバイバルスの籠が加えられていた。 死から2年後、ダマスカスのサラディンの廟の近くにバイバルスの墓が建てられた。
生前のバイバルスは息子のバラカへのスルターン位の世襲を望んでおり、1262年に配下の将軍たちにバラカへの忠誠を誓わせていた。 1275年にバラカと配下第一の有力者であるカラーウーンの娘を婚約させてバラカの立場を堅固にし、さらにバイバルスは死期が近づいたとき、バラカに「自分を軽んじる将軍がいれば、真偽を確かめた後に直ちに処刑しなさい。誰にも相談してはならない」と遺言していた。

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 遠征隊がカイロに帰国した時にはじめてバイバルスの死が公表され、19歳になるバラカがスルターンに立てられた。 しかし、バラカ、もう1人のバイバルスの息子サラーミシュは相次いで短い治世で廃位される。 1279年にカラーウーンがスルターンとなった。 カラーウーンはバイバルスに忠実な部下として仕えていた。 娘がバカラの后であり、バイバルス治世の末期には冷遇されるようになっていたが、サラーミシュの後見人の地位にあった。 カラーウーンはサラーミシュの摂政として政務と軍事を統括し、礼拝の唱和にはサラーミシュの名の次にカラーウーンの名が入れられた。 更には、カラーウーン配下のマムルークや彼の支持者が政府の要職に配置され、カラーウーンの政敵は追放され、あるいは彼の派閥に引き入れられた。 そして、1279年11月27日に同僚であるバフリーヤ軍団によって、カラーウーンはマムルーク朝のスルターンに選出される。
バイバルスの死後、二年目の事であった。

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 ===== 続く =====

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