十字軍とテンプル騎士団=40=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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❢❢❢ 十字軍国家の消滅とテンプル騎士団 ❢❢❢

サハラ砂漠以南の広大な地帯を占めるスーダンに存在した南のマクリア王国とアブワーブ王国の間に紛争が起こり、1287年に両国はイスラム世界の最勇国・マムルーク朝に調停を求めた。 マクリアに派遣した監察官はマクリアのシマムーン王に非があると報告し、またアブワーブに派遣した監察官は帰路でシマムーンに危害を加えられた。 マムルーク朝の第8代スルターン・カラーウーンはマクリアに討伐隊を派遣し、シマムーンを追放して新たな王を擁立した。 しかし、マムルーク朝が擁立した新王たちはシマムーンによって廃位され、マムルーク軍は逃走したシマムーンを捕らえることができなかった。 最終的にシマムーンは1290年にマムルーク朝に臣従を申し出、アッコン遠征の準備に忙殺されていたカラーウーンは申出を受諾する事件が起きていた。

1290年夏、ローマ教皇ニコラウス4世の呼びかけに応じて、イタリアから数千人の義勇軍がアッコンに上陸する。 イタリアの義勇兵はシリアのイスラム教徒だけでなく現地のキリスト教徒も殺害し、彼らの蛮行に激怒したカラーウーンはアッコンの攻撃を宣言した。 しかし、1290年11月10日、アッコン攻撃の準備中にカラーウーンは陣没する。 カラーウーンは、第8代スルターンに即位直後の1280年10月に長子のサーリフを後継者に指名していたが、サーリフはカラーウーンの死の直前に急死していた。 サーリフの弟であるハリールを新たな後継者とする手続きがされようとしていたが、カラーウーンはハリールの粗暴な性格を敬遠し、彼がサーリフを毒殺したと疑っていたため、後継者への指名を拒否していた。 カラーウーンが没した時も未だに後継者は決定されていなかったが、最終的にハリールがスルターンに即位する。 カラーウーンが陣中で没したのは窒息死と言われ、ハーリルの陰謀であろうとの噂が絶えなかった。

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 しかし、カラーウーンが達成できなかった十字軍国家の制圧はハリールの治世に達成される。 1290年にカラーウーンがエルサレム王国最後の拠点であるアッコン遠征の計画を立てたとき、サリーフはスルターン代理としてカイロの留守を任されていた。 父が後継者を決めずに急死するとマムルークたちによってスルターンに擁立されるが、彼は即位のときに父カラーウーンの署名のない叙任書を投げ捨て、マムルークたちを威圧した。

1291年4月5日に、父の悲願であるアッコンの包囲を開始した。 ハリールがテンプル騎士団総長ギヨーム・ド・ボージューにあてた挑戦状にはキリスト教徒とフランク人への敵意が示されていた。 ハリール自らが指揮するイスラームの軍は騎兵60,000、歩兵160,000、投石器92を投入、対する十字軍の兵数は3~40,000、うち800が騎士で14,000が歩兵、残りは巡礼者が動員された。
包囲から1週間は小競り合いが起きただけだったが、週末に攻城車を組み立て城内の兵士と城壁にそびえる守備の要「呪われた塔」を攻撃し、坑道を掘っての地下からの攻撃も試みた。 5月4日にキプロス王アンリ2世がアッコンに到着、アンリ2世から講和の使節が派遣されると、攻撃を一時止める。 会見はアッコンの「特使の門」で行われたが、ハリールは無条件降伏を要求して交渉は難航、会見中に十字軍兵士が独断で放った投石が交渉の場の近くに着弾するに及んで、交渉は決裂した。

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 陥落の直前にド・ボージューが戦死、聖ヨハネ騎士団の総長ジャン・ド・ヴィリエは重傷を負った。 5月18日金曜日にイスラーム軍はアッコン市内を占領、同日にアンリ2世はアッコンから脱出した。 そして、5月28日にテンプル騎士団員の立て籠もる騎士団本部を占領、アッコンを完全に陥落させた。 包囲から攻略までの戦況は、戦争に従軍したハマーアイユーブ朝王族アブ・アル=フィダによって、『人類史綱要(Tarikhu ‘l-mukhtasar fi Akhbari ‘l-bashar)』に詳細が記録されている。 アッコン陥落後もなお独立を保っていたティルス、シドン、ベイルート、トルトーザは相次いで8月までにマムルーク朝に降伏、最後まで残っていたシリアの十字軍国家は全て滅亡した。

また、マムルーク朝への臣従を拒むヌビア(前節参照)北部のキリスト教国家マクリア王国に対しても圧力をかけた。 マクリア王シマムーンはカラーウーンが傀儡として立てた二人の王を廃位して公然と敵対していたが、カラーウーン存命中は貢納を条件として王位を黙認されていた。 しかし、ハリールの即位後にシマムーンが彼を侮って貢納を取りやめると、1291年にマクリアにアイバク・アルアフラムを指揮官とする軍を送り、シマムーンを追放して自らの息のかかった王を立てた。 これらの結果、地中海南部のアフリカ北部域、地中海東部域・中近東のレヴァント地帯がマムルーク朝の勢力に服した。 1096年の第一回十字軍の進軍で始まったキリスト教の聖地で在り、ユダヤ教 またイスラム教の聖地でもあるエルサレムの統治権はイスラム教のマムルーク朝が約200年の戦いの後の手に入れたのである。

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 聖地エルサレム巡礼の安全を目的に結団されたテンプル騎士団は最後の砦であるシリア、そしてキプロスから撤退した。 そして、1307年10月13日、フランス全土のテンプル騎士団の支部が一斉に捜査され、総長のジャック・ド・モレー以下3000人のテンプル騎士達が、この同じ日に逮捕されたのである。 これは、当時としては、おそろしく用意周到な計画的な逮捕劇であった。 この計画を命令したのが、当時のフランス国王フィリップ4世/男王である。 そして、王の右腕として、実際に作戦を練り、この計画を実行に移したのが、宰相ギヨーム・ド・ノガレである。 フィリップ4世が、テンプル騎士団を潰そうとした理由は、騎士団が保有する莫大な財産狙いだったと見て間違い無い。

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===== 続く =====

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