十字軍とテンプル騎士団=41=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 本国に戻ったテンプル騎士団  ◆◇

1096年の第一回十字軍の進軍に伴って活動を開始したテンプル騎士団は、1291年のエルサレム王国の陥落によって、エルサレム巡礼者の保護という、本来の役割を失ってしまった。 しかし、約200年の時の経過の中でその組織は巨大化し、肥大した組織はヨーロッパにおいて存続し続けた。 騎士団は税金の免除という特権を持っていた。 さらに、騎士団は金融業にも手を染めていた。 最初は、巡礼者が旅先で金銭に困った時の援助から始まったことだ。 巡礼者は、旅に出る前に地元のテンプル騎士団の支部に行って、自分の財産を預ける。 そして、証文を貰う。 旅先で急に金が必要になった時は、その証文を旅先にある騎士団の支部に持っていけば、現地で金を調達できるというわけだった。

また、普通の修道院同様、寄付や寄進も受ける(しかも、税金免除で)。 テンプル騎士団は多くの寄進を集めたことによって十二世紀から十三世紀にかけて莫大な資産をつくり、欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。 そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有する。 さらに、騎士団は保有する資産の多くを換金し、その管理のために財務システムを発達させた。 後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有して独自の経済活動を展開していた。

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  こうしたことをしているうちに、騎士団は、とうとう本当の金融業を行うようになって行くのである。 彼らは十字軍の将校や、貴族、国王相手に金を貸したり、融資を行うようになる。 ことに、エルサレム陥落後に騎士団が本部を置いたフランス王室との関係は密接であった。 その資金力と武力集団として・・・・・騎士団は、フランスの国庫の管理を行うまでに至ったのである。 とは言うものの、フランス王室は国の金庫の全てをテンプル騎士団に管理させていたわけではない。 ルーブル宮に、行政用のもう一つの金庫を別に置いていた。 しかし、敗戦による経済危機がフランスを襲うと、フランスの国庫は、テンプル騎士団の管理するそれに統合されてしまう。 そして、税金の取立てまでも 騎士団が行うまでになるのである。

しかし、先記載の逮捕劇=1307年10月13日、フランス全土のテンプル騎士団の支部が一斉に捜査され、総長のジャック・モレー以下3000人のテンプル騎士達が同日中に逮捕される事件=が起こるのは、そのわずか4年後のことである。 本当のところ、フランス政府とテンプル騎士団との財政関係がどのようなものだったのかは、歴史学者達の間でも意見が分かれ、未だに謎である。 何しろ、どちらが債務者で、どちらが債権者なのか、それすら分かっていないのである。 騎士達が逮捕された時、帳簿の殆どが、なぜか「行方不明」になってしまったからだ。 フィリップ4世は、騎士団からの借金を踏み倒そうとしたのであろうか? 国庫を騎士団から取り戻そうとしたのであろうか? はたまた、単に騎士団の溜め込んだ金を強奪することだったのか?

それはともかくも、フィリップ4世の出した騎士団の罪状は、端から見ても、でっち上げは見え見えだった。  このフィリップ4世と宰相ノガレのコンビは、すでに1306年に、国内のユダヤ人相手にも同じようなことをしている。 このコンビはユダヤ人達を追放し、彼らの財産を奪い取ることに成功しており、悪しき前歴があった。  今回も同じ手口である。 しかし、「異端」の罪だと・・・・・・曰く、騎士団のイニシエーションでは、キリストを三度否定し、十字架に唾を吐きかける。 その後、臍と唇と背骨の下部にキスを受け、バフォメットの偶像を拝み、その偶像の元で聖別された紐をまとい、全裸になって男色に身を任す……。

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 フィリップ四世は異端的行為など百以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を自白するまで拷問を行った。 その結果、テンプル騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団(同時期に起源を持つ宗教騎士団、三大騎士修道会の1つに)へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定される。 このでっちあげの証言が、後にテンプル騎士団秘教結社説の材料の一部に利用されたのは、皮肉な話しなのだが、 当時のローマ教皇クレメンス5世は、最初はテンプル騎士団を救おうとした。 そして、その努力は続けられた。

教皇は、フランスでの事件を耳にすると、ただちに教皇領のテンプル騎士達に庇護を約束する。 そして、教皇直属の組織であるテンプル騎士団を勝手に逮捕・財産没収するのはけしからん、と非難した。 しかし、フィリップ4世からは、テンプル騎士団が異端であるという「動かぬ証拠」を送りつけられる。 それは、「自白」だ。 もちろん、拷問によって引き出された代物なのだが、この時の拷問は熾烈を極め、138人のうち36人が拷問によって殺されていた。

とは言うものの、この拷問を行ったのは、王の息がかかっているとは言え、教会の組織である「異端審問官」達である。 また、クレメンス5世は、最初のアビニョン捕囚の教皇であり、フランス国王には頭が上がらない立場にあった。 やむなく教皇は、「テンプル騎士団の異端の証拠があがったので、テンプル騎士団を取り締まれ」と言う教書を、各国の王達に出さざるを得なくなる。 しかし、幸いなことに、多くの国はこの教書には従わなかった。 ことにイギリス王に至っては、「これは騎士団の財産強奪目当ての見え見えの陰謀だ。こんなのに強力しないように」という手紙を各国の王達に出している。 おかげで、フランス以外のテンプル騎士達の殆どは、破滅から免れる。

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 ===== 続く =====

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