十字軍とテンプル騎士団=42=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ フィリップ4世の陰謀とローマ教皇 ◆◇

 フランスでの事件を耳にしたローマ教皇クレメンス5世は、フィリップ4世に、異端の罪を裁くのは教会の仕事であるから、後は自分にまかせろと言明した。 テンプル騎士団を救おうとしたのである。 テンプル騎士達の身柄と財産を、教皇庁に渡せ、とも要求した。 そして、異端審問所から騎士団の捜査権を取り上げ、自ら宗教裁判を行うと正式に宣言する。 早い話し、裁判をやり直して、騎士団を救おうという作戦だった。 これに応じるように、騎士団の総長ジャック・ド・モレーは、とらわれの仲間達に、教皇の前では自白を取り消すように、という回覧文書を送っている。 だが、フィリップ4世は、教皇に対して「身柄は引き渡すが財産は渡さない」と応える。 さらに、盗人猛々しいというか、「教皇は騎士団の財産目当てで、こんな要求を出してきた」と宣伝した。フィリップ4世とクレメンス5世との間には、アヴィニョンに絡む固執があった。

やがて、教皇の元に送られてきた騎士達は、いずれも下っ端の者ばかりで、ろくな裁判も出来ない。 教皇は、幹部クラスの騎士達を寄越すように要求したが、フィリップ4世は、幹部騎士達の健康状態が悪いことを理由に寄越さない。 彼らの身柄は、フィリップ4世によって、がっちりと抑えられていたのだ。 仕方なく、教皇は枢機卿を派遣して、調査を行うが、それはフィリップ4世の家来の立会いのもとで行われた。 さらに、取調べには、王の息のかかった異端審問官も加わった。 彼らは、「自白を取り消すと、“再堕落”というさらに重い罪に問われ、火炙りになるぞ」と脅した。 さらに、マリニー大司教なるフィリップ4世の手下の聖職者が、これらの裁判を取り仕切った。 こんな状態で、彼らが自白を取り消すことなど、出来るわけがない。 中級幹部や平の騎士達は、自白を取り消さなかった。

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 しかし、総長ジャック・ド・モレーは、自白を取り消した。 そして、拷問のインチキぶりを暴露し、無実を主張した。 これが連鎖反応となって、自白を取り消す動きも出始める。 さらには、弁護団も結成された。 だが、異端審問判決は「自白を取り消すのは、“再堕落”であり、より重い罪」であるとし、54人に死刑判決が下る。 自白を取り消さなかった者は、悔い改めたとし、釈放された。 これらの動向に教皇クレメンス5世はテンプル騎士団を救うべき最後の手段を執る。 1311年にヴィエンヌ公会議を開き、テンプル騎士団の処遇を決める審議を行ったのである。 そこに集まった司教達は、フィリップ4世の圧力に関係ない者の比率が多かった。 そのため、異端審問のインチキぶりを指摘し、判決の根拠を求め、騎士達に自己弁護をさせるべき、と採決した。

しかし、教皇にはこれ以上どうすることも出来なった。 がしかし、教皇は騎士団の財産を手に入れることだけは、それでも最後まで執着した……。

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 テンプル騎士団は財産もほとんど無い騎士修道会の集団であった。 極貧の修道士、または世俗の資産を放棄した修道士が集まり、キリスト教に生涯を奉げ奉僕する目的で結束した集団であった。 がしかし、発足以来の200年間で、彼らに対する王族や貴族の寄付は画気前がよかった。 いつしか、騎士修道会が所有する広大な地所や荘園、城がヨーロッパや聖地の各地に点在していた。 フランスやイングランド、イベリア、シチリアに領有する土地は特に広大であり、また第三回十字軍の終盤にはイングランドのリチャード王からキプロス島を購入するほどの財力も出来上がっていた。 勿論、リチャードは武力でキプロスをせいあつし、テンプル騎士団に与えたのだが。 これら所有地はテンプル騎士団によって有効に運営され、「補給部」として効果的に機能した。

軍事力の大半は地中海東部で戦闘し、消耗して行った一方で、財力はヨーロッパにおいて大いに栄えた。 長期に渡ってフランスの国庫はパリのテンプル騎士団に任されていたくらいだ。 騎士修道会は経済的な一大勢力となり、大勢の支配者(ここには教皇も含まれる)に対して銀行や両替業務を行っていた。 利子に対する高利の請求はキリスト教徒にとっては罪であったが、実利主義の騎士修道会は「罰金」として集められた利子をテンプル騎士団の資金として運用することでそれを正当化した。 またテンプル騎士団の建物内に金を保管しておくことも可能だったが、同様に料金がかかった。

料金がかかったとはいえ、テンプル騎士団の下に置かれた金は盗難からは極めて安全であった。 さらにそれら資金の受領書を得ることもできた。 この受領書によりどこのテンプル騎士団の金庫からでも払い戻しを受けることが可能だった。 例えば、パリのテンプル騎士団に金を預けた貴族がはるばるキプロスまで旅をした際に、受領書を提示することによって現金化することができたのだ。 だが幾ら正当化できたとはいえ、騎士修道会はその活動に対して妨害を受けることもしばしばあった。 ここに至って、 フランシ国王フィリップ4世はこの金融組織の乗っ取りを目論み、ローマ教皇クレメンス5世はテンプル騎士団の財力を取り込もうとした。

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 フィリップ4世は、ついに教皇庁に直接ねじ込んでくる。  「もう騎士団が異端であることは明白。 早く騎士団の廃絶を命じる教書を書くべきである」と。 そして、 1312年、この圧力に耐え切れず、教皇はついに「教会の利益のために」、テンプル騎士団を、正式に廃絶する教書を発行した。 続いて、テンプル騎士団の財産は、別の騎士修道会である聖ヨハネ騎士団の管理下に置くことを命じる教書を出す。 もともと、教皇庁には、この事件が起こるだいぶ前から、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の合体を主張する勢力があり、この意向がテンプル騎士団を内部から解体させる大きな力として作用したと言える。 確かなことはフランス以外の騎士たち、また 逮捕の難を逃れたテンプル騎士達も、一斉に聖ヨハネ騎士団に入団し、聖ヨハネ騎士団に身を置く。

こうして、テンプル騎士団は、完全に解体されて行く。

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===== 続く =====

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