十字軍とテンプル騎士団=44=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ テンプル騎士団の発足 ◆◇

テンプル騎士団を鳥瞰すれば、【テンプル騎士団は構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第一次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たした。 特筆すべき点として、騎士団が保有する資産=構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など=の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。 ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の策略によって壊滅状態となり、1312年の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。】と言いえる。

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 長らくイスラム教徒の手に落ち、ついではセルジューク・トルコ の支配下におかれたエルサレムを、十字軍が奪還したのが1099年である。 これでエルサレム巡礼がやっと再興しそうになったのだが、この巡礼ルートにはあいかわらず危険がともなっていた。 テンプル騎士団が結成されたのは、この巡礼ルートの守護のためだった。 従って、テンプル騎士団の歴史は第1回十字軍の成功にさかのぼる。 第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、十字軍参加者の殆どは聖地奪還に満足して帰国してしまい、中東地域に残されたキリスト教勢力(十字軍国家)は不安定なものであった。

1120年ころのこと、聖地への巡礼者を保護するという目的で活動を開始した仲間がいた。 初期の9人の仲間にはシャンパーニュ伯ユーグ(ユーグ・ド・パイヤン)、クレルヴォー修道院長ベルナールの伯父モンペールアンジェ領主フールクらがいた。 すでに活動していた聖ヨハネ騎士団修道会(オスピタリエ)の例にならって聖アウグスチノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てた。 かれらは自分たちのことを「キリストの貧しき騎士たち」とよんで、この仕事に生涯を捧げることを誓い合った。 テンプル騎士団の最初の”出陣”は、予想に反してスペイン・バルセロナ解放をめざした。 不正をしていると見えた相手なら、そこがたとえ地の涯であろうと、騎士団は正義を行使しに出掛けたのだ。 そして、テンプル騎士団が脚光を浴びたのはルイ7世の第2回十字軍遠征のときである。 このとき、のちに騎士団総長になるフランス管区長デ・バールが130人の騎士を集めて駆けつけた。 そのうち40人がアスカロン(アシュケロン)に突入を果たす。

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 アスカロンは当時のイスラム圏にとっての地中海沿岸最後の拠点である。 イスラムの太守であったトルコ軍はこのアスカロンを守るために周辺の巡礼道を脅かし、ボードゥアン2(後の第3代エルサレム王)はアスカロンを破壊し、イスラムの拠点を潰そうとする。 そこへ先頭をきって突入を果たしたのがテンプル騎士団なのである。 ところがこの40人はトルコ兵に逆襲をうけ、全員が殺される。 アフガンに最初に入ったアメリカの部隊が全員惨殺されたようなものである。 このニュースがヨーロッパを震撼させた。 しかし実は、テンプル騎士団の歴史はすべてが「殉死の歴史」でもあって、このあとも騎士たちは十字軍結成のたびにこれに参画して、勇猛に突入をくりかえすのだが、ことごとく撃退されたのである。 とくにイスラムの英雄サラディンの前にも全員虐殺の憂き目を負っているが・・・・・。

残った騎士団を率いるユーグ・ド・パイヤンとデ・バールはエルサレムに入城してエルサレム大司教とエルサレム王(十字軍国家)に≪聖地への巡礼者を保護するという目的完遂≫を誓った。 誓いをたてること、それがこのような騎士団が最初にやることである。 エルサレム王はこの騎士たちのために、彼らの宿舎の用地として神殿の丘にある“アル=アクサー・モスク”を与えた。 神殿の丘にはもともとソロモン王のつくったエルサレム神殿があったという伝承があった。 このことから会の名称「テンプル騎士団」が生まれることになる。 以来、かれらは「タンプリエ」(神殿を守る騎士たち)とよばれることになる。

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ユーグ・ド・パイヤンは、自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であったクレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを依頼した。 ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128年1月13日、フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。

当時のヨーロッパ貴族の間では聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという意見が多かったため、テンプル騎士団はフランス王をはじめ多くの王侯貴族の寄進を得て入会者も増えた。 1139年に教皇インノケティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与したことが、その勢力を拡大する契機となった。

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 テンプル騎士団は1147年の第2回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な土地を寄贈した。 ここにテンプル騎士団の西欧における拠点が建設された。 この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦に近いもので、教皇や外国君主がフランスを訪れる際には宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。 1163年には教皇アレクサンデル3世が自らの選出に際し、尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅 Omne Datum Optium を出して、修道会と財産の聖座による保護、司教からの独立などの特権を賦与した。

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===== 続く =====

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