十字軍とテンプル騎士団=46=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 財務機関としての発達と崩壊の芽  ◆◇

軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔が、財務機関としてのものであった。 もともと入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。 ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。 巡礼者に対しては、現金を持ったまま巡礼の道を移動する事により起るリスクを防ぐため、自己宛為替手形の発行等の銀行機関のようなサービスも行った。 また現在で言う預金通帳のような書類もテンプル騎士団のイノヴェーションだと言われている。

第1回十字軍がヨーロッパに引き上げ、残った騎士団が十字軍国家を建設に追われ、聖地エルサレムに向か巡礼者を保護するために1119年に創建テンプル騎士団は、それ以降 多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。

そこに教会と城砦を築き、ブドウ園や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。 また、パリにあった支部はフランス王国の非公式な国庫といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する経済援助を行っている。 1146年にはルイ7世の命により王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられ、この体制はフィリップ4世の統治時代まで続く事となる。

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 テンプル騎士団は肥大したが、彼らがその手に武器を取ることはなかった。 イベリア半島でのイスラム勢力との交戦や前節で記した1177年11月25日の“モンジザールの戦い”=第3回十字軍=までは。 テンプル騎士団の主要任務は聖地の守護と、領地を通る巡礼者たちの警護である。 聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)が軍事組織となるまでは、文字どおり唯一の常備軍だった。 とはいえ、聖ヨハネ騎士団と協力したとしても両者を合わせた軍事力は、潜在的な敵の数と比較すれば余りにも小さなものだった。

騎士はキリスト教国中から広く募集された。 前記のごとく、修道会には大きく3っの階層がある。 第一に騎士。 一般的に彼らは修道会に入会した世俗の騎士や貴族たちである。 彼らは白いマントを身にまとい、第二回十字軍の際には特有の8本の十字架がローブに付け加えられた(対照的に、聖ヨハネ騎士団は白の十字架が入った黒いマントを着用し、ドイツ騎士団は黒の十字架が入った白いマントを着用していた)。 大半の騎士たちは修道会にその生涯を捧げたが、準会員として参加した者もいた。 そういった者たちは、「戒律」の教義全てを支持し、常時騎士として活動しなくてはならなかったが、それは特定の期間の間だけであった。 準会員の騎士としてはアンジュー伯フールクが最も有名であろう。修道会に貢献した数年後に、彼はエルサレム国王となっている。

騎士たちは貧しかった。 個人的な所有物の所持はもちろん、自分たちやその持ち物を飾り立てることさえ許されてはいなかった。 そのため彼らの所有物はみな平凡で簡素なものだった。 これが結果的には事務的で均一な外観を与え、彼らをいかなる状況でも目立たせることとなった。 各人は鎖帷子一式と2,3頭の馬(1頭の巨大な軍馬は戦闘の際に使用し、残りの1,2頭の馬は日常で使用した)、武器一式を所有していた。彼らは尊敬を受け、十字軍参加者の中でも目立っていた。

また髪は短髪に、あごひげは長くしていた。 だがヨーロッパで流行していたスタイルは、その正反対であった(男性は大抵髪を長く伸ばし、髭を奇麗に剃っていた)。 イスラム教地域ではあごひげは男らしさの象徴であり、この点でテンプル騎士団は有利であったかもしれない。b敵がキリスト教徒で最も手強い相手として彼らを認め、それゆえ彼らを尊敬していたということも、ありえる話である。

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 騎士の後は、従士だ。 彼らには修道会の厳格な規定は定められておらず、茶色もしくは黒のマントをまとっていた。「修道士(Brother)」とも呼ばれる従士は市民(中産)階級の自由民男子であり、武装もしてはいたが騎士ほどに重武装はしていなかった。 騎士の従者、衛兵、執事などの役割を務め、騎士修道院の戦力として重要な存在だった。 三番目に、テンプル騎士団の支配層であり人数も最も少ないのが聖職者である。 彼らは緑のローブをまとい、常に手袋をしていた。 テンプル騎士団の聖職者として、彼らは修道会の総長にのみ従っていた。

テンプル騎士団の指導者には総長の称号が与えられた。 ヨーロッパの様々な国にあるテンプル騎士団の支部にはそれぞれ長がおかれ、各長は総長と、そしてもちろん教皇に従っていた。 例えば、アラゴンの長はアラゴンにおけるテンプル騎士団の全活動を統括しており、彼は総長に対してのみ責任があり、地元の教会や支配者に従ってはいなかった。  騎士団が存続していたおよそ200年間の間に、テンプル騎士団は発展し、拡大していった。 これは、パレスチナでのテンプル騎士団の軍事力が増強していったというのではない。むしろ、ヨーロッパで成長していったのだ。

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 確かにテンプル騎士団は、信心深い宗教組織ではあったが、騎士修道会が宗教の教義の盲目的奴隷であったわけではない。 実際、彼は時には極めて実利的だった。 上記の高利貸し正当化の事例は、その一例にすぎない。 理論的には彼らは異教徒と関わったり交渉するべきではないはずであるが、彼らは常にイスラムの不倶戴天の敵というわけではなかった。 必要とあらば、条約をあっさりと破棄することも厭わない十字軍参加者(やヨーロッパ人)の中でテンプル騎士団のそのような特徴は、敵対するイスラム教徒にとって彼らが信用に足りる存在にうつった。 イスラムの偉大な指導者サラーフ=アッディーンは異教徒の戦士たちを憎んでいたが、彼らのことは尊敬していたくらいである。

テンプル騎士団と聖マルタ騎士団はエルサレム王国にとって唯一の常備軍であった。 軍隊の規模は小さかったが、その団員の優秀さが規模の小ささをある程度相殺した。 実際、騎士は戦闘の際に三人以上に取り囲まれた場合を除き逃走することはテンプル騎士団規範により禁止されていた。 人数的に敵が優勢なことはたびたびで、小勢のテンプル騎士団員が多勢のイスラム軍に対して勇敢に立ち向かっていったという事例も数多く文書で残っている。 戦闘の際には彼らは残忍かつ無慈悲であり、捕虜に対して慈悲を示すこともほとんど無かった。

精鋭であったが必ず勝利を得るというわけではなく、戦闘に参加した大勢のテンプル騎士団員は多くの場合は戦死したり、捕虜となった。 戦場にて戦死したり、イスラムの虜囚となり苦難の日々を過ごした騎士修道会の総長も幾名かいた。 悲劇的にも、虜囚となった騎士の身代金の支払いを騎士修道会は拒み、大半の者はすぐさま処刑された。

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 最終的には、聖地でのキリスト教徒の努力は無に帰した。 第一回十字軍だけがその目的を果たしたと言えよう。 他の大半は絶望的なまでの大失敗であった。 第三回十字軍は最も有名であり、ある程度の成功も収めた。 獅子心王・リチャードに率いられたイングランド軍の目的はサラディン率いるイスラム軍からエルサレムを解放することだった。  リチャードはエルサレムを奪取することはできなかったが、沿岸に沿ってキリスト教徒の支配地域拡大に成功した。 彼の到着前はただ一つの都市アッコンしかキリスト教徒の支配地域はなかった。 だが彼が去った時には、沿岸の重要な港や城塞、都市がキリスト教徒の支配下となっていた。

この二つの十字軍のほかには、パレスチナにおけるキリスト教国への永続的かつ有効な影響を残せたものはほとんど無い。 せいぜいよくても、滅亡を遅らせたに過ぎなかった。 何十年もの間、キリスト教徒はあらゆる面で敵に数で負けていた。 第三回十字軍の終結を持って、キリスト教徒が広く熱望していた十字軍の継続の意思も衰えを見せた。 残された土地を永続させる唯一の方法は、隣人であるイスラム勢との外交だった。軍事力はキリスト教徒にとって効果的な役割を滅多に果たせなかった。 驚くことではないが、パレスチナ最後のキリスト教支配地が1291年に陥落した際には、この大事件に対する非難の多くが騎士修道会に向けられた。

彼らが聖地にいる限りは、その存在意義を疑問視する者が増えているにもかかわらずテンプル騎士団は実質的機能を保持していた。 多くの者が彼らの影響力に恐れを抱き始め、さらに彼らのしばしば見せる強硬的な態度に腹を立てていた。 彼らは教皇の頑迷な支持者であり、このことは世俗の支配者によくは受け入れられなかった。 様々な事業に対するテンプル騎士団の援助が必要とされ、特にビザンティン帝国に対する十字軍の計画などもその中にはあった。 最終的には、多くの人々はある極めて具体的な理由によりテンプル騎士団を信用しなくなった。 規範が騎士修道会に採用されてすぐに、総長は秘密政策を定めた。 騎士修道会の儀式や会合は非公開としたのだ。

年月が経つにつれ、人々にはその政策が何やら不吉なものに思え始めた。 そもそも彼らが善人で正直なら、なぜ秘密などというものが必要なのだろうか? 彼らが隠しているものとはいったい何なのか? なぜ秘密政策が確立し、長年維持されてきたのかが少し当惑させられるが、彼らが神聖なる誓いに違反するような兆候は一切無かったのだが・・・・・・・・。

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 ===== 続く =====

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