十字軍とテンプル騎士団=47=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 稀に見る傲慢さと敬虔さとが同居している端麗王フィリップ  ◆◇

1291年にパレスチナのキリスト教徒最後の支配地が陥落したにもかかわらず、テンプル騎士団の騎士たちの権力は増大していった。 だが多くの者の目には彼らの存在意義やその使命は、もはや存在しないように映っていた。 テンプル騎士団とホスピタル騎士団を合併させるという試みは、テンプル騎士団の(最後の)総長 ジャック・ド・モレーによって様々な理由により抵抗にあった。 彼はいつの日か聖地に戻りエルサレム王国を解放する夢を未だに抱いていたのである。

他方、聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)は新たな役割を担っていた。 1309年、彼らはビザンティンからロードス島の奪取に成功し、翌1310年には本部をキプロスから移し始めた。 ロードス島を要塞化し強力な艦隊を築くことで、東地中海からのイスラム海賊一掃に向けて邁進した。 このことが 聖ヨハネ騎士団の明白な存在意義をヨーロッパのキリスト教徒たちに印象づけ、それが彼らに有利に働いて行く。

しかしテンプル騎士団は(現状に対する)いかなる調整も行なおうとはしなかった。 彼らは厄介な経済や(もはや存在しない王国に対する軍事的補給を意図した)補給のシステムを維持していた。 彼らはヨーロッパ全土に渡る広大な支配地を支配し続け、多くの支配者たちはその土地を切望するようになっていった。 フランス国王フィリップ4世もそういった支配者の一人だった。 端麗王フィリップとしても知られているこのカペー王朝の君主は、冷酷で計算高く、権力も強大で周囲には恐怖を植え付けていた。 彼は強大な国王であり、彼に挑戦し得る者はほとんどいなかった。 彼の前任者たちは単にイル・ド・フランス(パリ周辺の地域)を支配するだけに留まっていたが、彼はフランス全土を支配していた。

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  しかし、フランスは慢性的な財政難にあえいでいた。 フィリップ4世は多大な財政的負担を抱えていた。 イングランドを含む隣国との戦争が、後に財政的負担となってのしかかったのだ。 ごく当然に、彼はその負担を和らげるための方法を模索した。 フィリップ4世は腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296年に教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳をおこなった。
彼の最初の標的はフランスのユダヤ人たちだった。  1306年、フィリップ4世はフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出た。 彼らにとって、高利貸は罪でもなんでもなく、自分の久遠の魂や教会からの非難を心配すること無く自由に金利を取りたてることができた。 そしてフィリップ4世は彼らからの多大な額の負債を抱えていた。

彼の決定はこうだ。 「フランスにいる全ユダヤ人を逮捕せよ」。 これにより彼の負債は帳消しとなり、ユダヤ人が所有する私財や金の全てを所有することができた。 この国王の強硬策に異を唱えるキリスト教集団はほとんどいなかった。 結局ユダヤ人はイスラム同様に異教徒と見なされたわけである。
1日でほぼ全てのユダヤ人が逮捕され、富を全て剥奪されたこの事件は、テンプル騎士団の運命の前兆ともいうべきものだった。 まとまった資産を手にしたフィリップ4世が次に目をつけたのが富裕なテンプル騎士団であった。 当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。 そのため、フィリップ4世は債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画したと思われる。

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 端麗王フィリップにとってユダヤ人からの強奪だけでは十分でなかった。 彼は更なる富を求めただけではなく、テンプル騎士団の影響力をも恐れた。 テンプル騎士団の総長ジャック・ド・モレーはビザンティンのキリスト教徒に対する十字軍を起こす計画に対してすでに断固とした異議を唱えていた。彼にとっては、エルサレム奪取およびキリスト教国再建を究極目標としたパレスチナあるいはエジプトへの侵略が目標となるべきだった。 ビザンティンの攻撃計画は、表向きはキリスト教異端者に対する圧力であった。だが、テンプル騎士団の真意は、ごく単純に帝国が抱え込んでいる莫大な富が目当てだったのである。

政治的問題は脇において、フィリップ4世は経済的な部分が気になった。 フランス国王は騎士修道会に対して法律的に税を課すことができず、騎士修道会、特にテンプル騎士団がフランスに領有する土地からくる潜在的税収額をカペー王朝の君主は受け取ることができなかった。 さらに騎士修道会の教皇権に対する支援は王側にとっては強大な教皇に抵抗していたこともあって、棘のような存在となっていた。 前年の1305年、フィリップ4世は自分の推すクレメンス五世が教皇就任に成功した際に、テンプル騎士団に対して対処することが可能な状況が熟成されたと判断していた。

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===== 続く =====

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