十字軍と騎士修道会・騎士団=50=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第二部“騎士修道会”  ❢❢❢

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◇◆ 地中海の制海権 ◆◇

マルタ騎士団は、1565年に再びオスマン帝国の大船団に襲われることになるが、スペインの救援とスレイマン1世の死(1566年)によって、辛うじて防衛に成功した。 このときオスマン軍撃退に活躍した騎士団総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットにちなんでマルタ島の主要港がヴァレッタと名付けられた。 そして、続いて翌年(1571年)の“レバントの海戦”でもマルタ騎士団の船が参加する。 その海戦は、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍が地中海の制海権をかけたイスラム教勢力とキリスト教勢力の激突であった。 ギリシアのコリント湾口で対戦するのだが、その経緯は・・・・・・・。

1570年にオスマン帝国のスルタンであるセリウム2世がキプロス遠征を行い、ヴェネツィア共和国は同年にキプロス防衛のためにカトリック教国の艦隊を結集させようとしたが、スペインが消極的だったため、翌年 1571年8月にキプロスはオスマン領になる。 カトリック教国の連合艦隊は300隻からなり、オスマン帝国の艦隊は285隻であった。 両軍とも大多数をガレー船が占めていた。 カトリック連合側には疾病の流行により若干の戦力の減少があり、オスマン側は疾病に加え9月中旬の帰投予定が延長されるなど長期の活動による必需品と武器弾薬の補給欠乏によって戦力の減少と士気の低下を招いていた。

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 連合艦隊側では総司令官ドン・フアンが小舟で各艦に激励にまわっていた。 天候は快晴。 東からの微風が吹き、オスマン艦隊にやや有利な状況である。 連合艦隊は右翼ドーリア艦隊71隻を中心に107隻、左翼がドン・フアンの艦隊89隻を中心に114隻、左翼後方にバル・バリーゴ(ヴェネツィア元首)艦隊55隻、後衛にはサンタ・クルス(スペイン海軍提督)の30隻が控えている。 オスマン艦隊は右翼マホメッド・シャークル(シロッコ)艦隊60隻、左翼クルチ・アリ・パシャ(ウルグ・アリ)艦隊100隻、中央がメジンザード・アリ・パシャの直属艦隊93隻。 さらに後衛に22隻がいる。

風向きが西に変わり、オスマン艦隊に帆を下ろすための隙が生じた。 ここで先行する連合艦隊のガレアス船=帆船とガレー船の中間的な性格を持つ船=がオスマン艦隊を射程距離に捉えて砲撃を開始、これにより多くの損害が出たが、オスマン艦隊ガレー船は速やかに両脇を漕ぎ抜け、ガレアス船がこの後戦闘に加わることはなかった。 戦場の北、連合艦隊左翼バルバリーゴ艦隊はオスマン艦隊右翼シロッコ艦隊が後方へ回り込むのを防ぐため、海岸近くまで船を寄せていたが、地形に詳しいシロッコ艦隊の6隻が連合艦隊後背に回り込むことに成功していた。

激烈な戦闘が展開され、旗艦で指揮を執るバルバリーゴ司令も右目を矢で射抜かれ致命傷を負い、指揮官不在の連合艦隊は崩壊しかけるが、隙を見て横付けした援軍により難を逃れた。 指揮権はバルバリーゴの甥マルコ・コンタリーニが継承した。一方のオスマン艦隊のシロッコも槍に胸を貫かれ戦死した。 オスマン艦隊は大混乱に陥り、先を競って離脱をはかったためかえって船を衝突させ被害を出した。 戦場の南、連合艦隊右翼ドーリア艦隊はオスマン艦隊左翼ウルグ・アリ艦隊と対峙し、互いに包囲されるのを防ぐために南へ移動していた。

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 中央部隊も大激戦であった。 特に両軍の総旗艦が衝突した。 この戦闘によりアリ・パシャが戦死したため、オスマン艦隊の旗艦は投降した。 双方のガレーの櫂手はキリスト教徒とイスラム教徒の奴隷で構成されていた。 戦場の南では、ドーリアとウルグ・アリが南へ移動し続けていたが、やがてウルグ・アリは北への転進をはかる。 そこへ連合艦隊左翼部隊・中央部隊で戦闘に決着がついたドン・フアンおよびサンタ・クルス侯がドーリア艦隊の救援に赴き、さらにドーリアも北へ転進した。 すでにシロッコ、アリ・パシャ、アサンとも戦死しており、これ以上の戦闘は無益とウルグ・アリ艦隊は戦線離脱した。

士気の低かったオスマン帝国側は戦闘開始1時間半で早々に逃亡を始めている。 なお、致命傷を受けたバルバリーゴは2日後に死亡して他にも艦長クラス以上の戦死者も出たが、全体としてカトリック同盟側の損害は軽微である。

結果は、オスマン帝国の大敗に終わった。 海戦に参加したおよそ285隻の内、210隻が拿捕され25隻が沈没、逃走が確認されたのが25隻で残る25隻も逃走したと思われる。 3万人の多くが捕虜となって奴隷となるか処刑され、戦死または行方不明者も少なくなかった、ガレーの漕手となっていたキリスト教徒の奴隷12000人が解放された。

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 この戦闘は、西欧の軍隊がオスマン帝国に大きく勝利した最初の戦いとなり、ヨーロッパに大きな心理的影響を与えた。 しかし、その後スペイン王国とヴェネチア・法王は足並みがそろわず、勝利をさらに前進させて当初の目的であるキプロス島奪還などの利益を獲得することが出来なかった。 大敗と言っても、帰還時期を誤ったオスマン帝国側の提督の戦略的失策によるもので、この海戦の結果が即、西欧-オスマン帝国の軍事的均衡に繋がる訳ではなかった。

事実、オスマン帝国は艦隊の再建に取り掛かり、6ヶ月後には大艦隊の艤装を完了した。 ヴェネツィアから奪取していたキプロス島の権利を割譲させるなど、地中海における優位性を依然として維持し、地中海の西側においてもスペイン王国が制海権を確保するのはまだ先のこととなる。 また、ヴェネツィア共和国の開戦後の立ち振る舞いがマルタ騎士団に暗雲をもたらすことに成る。 尚、蛇足ながら 小説「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デ・セルバンテスも参戦したが、左手に砲撃を受けて失っている。

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 ===== 続く =====

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