十字軍と騎士修道会・騎士団=53=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第二部“騎士修道会”  ❢❢❢

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◇◆ ドイツ騎士団の東方活動 ◆◇

ヘルマン・フォン・ザルツァはテューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世とともに1183年から1191年にかけての“アッコン包囲”に参加していた。 1187年にイスラム国家のアイユーブ朝サラーフッディーンがジハード(聖戦)を宣言。 アイユーブ朝の始祖であり回教徒の英雄サラーフッディーン(サラディン)は同年7月に現地十字軍国家の主力部隊を壊滅=ヒッティーンの戦い=させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムがイスラム側に占領、奪還された。 その後もサラディンの軍は快進撃を続け、同年中にはなど若干の要塞を除く十字軍国家のすべてがアイユーブ朝の手に落ちた。

この状況を受け、教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード1世フランス王フィリップ2世神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した=第3回十字軍=。 フリードリヒ1世は1190年に渡渉中の事故で溺死、あとを継いだイングランドとフランスの十字軍が1191年にアツコンを奪還した。 その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世がサラーフッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった(アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)。 しかし、エルサレム陥落とヒッティーンの戦いの後遺症は大きく、以後十字軍国家は守勢に回ることとなるのだが、十字軍終了後もルートヴィヒ3世とともに残ったドイツ人たちは、後のドイツ騎士団の基礎となる野戦病院を創設した。

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 1215年までヘルマンはパレスチナ、キプロス島に滞在し、騎士団の所領を視察し、1215年にローマで開催された第4ラテラン公会議に出席、翌1216年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の宮廷を初めて訪れた。 フリードリヒ2世は学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主としての振る舞う君主であった。 事実 後世の史家は、フリードリヒ2世を「王座上の最初の近代人」と評している。 彼は普段の食事は質素であり飲酒も控えていたが、彼が開いた宴会は豪勢なものであり、時代を先取りする立ち振る舞いの宮廷生活を送っていた。 この君主に魅入られたヘルマンは、1216年以後 フリードリヒに近侍し、あるいは彼の使者として各地を飛び回ることに成った。

ヘルマンは皇帝フリードリヒ2世の友人となり、また有能な参謀と成った。 ヘルマンは神聖ローマ帝国と教皇庁の間に立つ仲介者として活躍しだす。 ホノリウス3世はヘルマンの能力を認め、彼が組織する騎士団に聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)やテンプル騎士団と並ぶ地位を認めた。 そして、1219年にヘルマンはエジプトのダミエッタを攻撃する第5回十字軍に参加し、ジャン・ド・ブリエンヌから武勇を称えられた。 第5回十字軍に参加しなかったフリードリヒ2世に十字軍への従軍を促すため、ヘルマンはフリードリヒとジャン・ド・ブリエンヌの娘ヨランドの結婚に部分的に関わり、十字軍への参加を渋るフリードリヒと、参加を迫る教皇ホノリウス3世の間を取り持ち、1227年の秋にはフリードリヒ2世に十字軍の参加を誓約させている。

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 フリードリヒが実施した第6回十字軍にはヘルマンも付き従った。 グレゴリウス9は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。 1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征を開始。 故に「破門十字軍」「フリードリヒ十字軍」とも呼ばれのだが、当時エジプト・アイユーブ朝のスルタンアル=カーミルは内乱に悩まされており、フリードリヒ2世の巧みな外交術もあって、第6回十字軍は戦闘を交えることなく1229年2月11日に平和条約(ヤッファ条約)を締結した。

フリードリヒ2世は、ウマルのモスクとアル・アクサ寺院はイスラムが保持するとの条件でエルサレムの統治権を手に入れたのである。 教皇グレゴリウス9世は、カトリック教会を破門されたままであった皇帝フリードリヒ2世がエルサレムの王となったことを口実に、フリードリヒ2世を設問する十字軍を実施したが皇帝軍に撃退され、その結末として 1230年にフリードリヒ2世の破門を解いた。 その後、1239年から1240年に、フランスの諸侯らが遠征したが、先行したフリードリヒ十字軍と同じく戦闘は行わないまま、アイユーブ朝との交渉によってガリレア地方とアスカロンを獲得し、帰還している。

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 因みに、パレスチナへの航海中にフリードリヒ2世が病に罹った時には、ヘルマンはフリードリヒ2世が教皇から破門を受けることを覚悟の上で、十字軍の中断を進言していた。 ましかし、フリードリヒ2世とアル=カーミルの交渉を演繹し、成立させている。 また、教皇グレゴリウス9世が激怒したエルサレムでのフリードリヒ2世の戴冠式の認証者として出席し、ヘルマンは十字軍から帰国した後、フリードリヒの破門の取り消しに奔走する。 その結果 1230年にチャペラノの和議でフリードリヒ2世の破門が取り消され、フリードリヒ2世と教皇グレゴリウス9世が和解の証として設けた食事の場には、ただ一人の立会人としてヘルマンが同席していた。 しかしながら、後年に教皇の対立が深刻化すると、フリードリヒ2世はヘルマンをより頼みにするようになった。

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 ===== 続く =====

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