十字軍と騎士修道会・騎士団=55=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第二部“騎士修道会”  ❢❢❢

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◇◆ ドイツ騎士団の東方進出 ◆◇

1226年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世からドイツ騎士団に「リミニの金印勅書」が与えられる。 この特許状は、騎士団に「クルマーラントとプロイセンラントにおける領邦主権者」としての法的地位を認めるもので、騎士団は異教徒である先住プロイセン人の土地を征服・領有する権利を保証するものであった。 ドイツ騎士団総長のヘルマン・フォン・ザルツァは、フリードリヒ2世が第六回十字軍を率いてアッコンに上陸した後に、血を流すこともなく、政治力を駆使してエルサレムを統治するアイユーブ朝のスルターン・アル=カーミルとの間にヤッファ条約(1229年2月11日)を締結するに大きく関わっていた。 また、ザルツァとローマ教皇との個人的な親密関係から、1230年にローマ教皇グレゴリウス9世からドイツ騎士団への評価が下された。 即ち、異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖うことができる救済行為であるとして、武力によるキリスト教化を正当化する教勅が与えられるのだが・・・・・・・。

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 エルサレムに入城したフリードリヒ2世はエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは破門されているフリードリヒへの戴冠を拒む。 しかしながら、1229年3月18日、フリードリヒ二世は入城したエルサレムの聖墳墓教会でエルサレム王として自らの手で戴冠してしまった。 エルサレム総司教や聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団の総長は出席しなかった。 ドイツ騎士団は皇帝フリードリヒ2世の護衛兵として仕え、総長ヘルマン・フォン・ザルツァは皇帝の布告をフランス語とドイツ語で読み上げ、キリスト教世界にフリードリヒ二世のエルサレム王国の君主に就任したことを知らしめた上で、フリードリヒ2世の破門解除に奮闘する。

間もなく、イタリアにおいて教皇グレゴリウス9世は破門皇帝フリードリヒ2世に対する追討十字軍を宣言。 軍隊を神聖ローマ帝国に侵攻させたため、フリードリヒ2世はアッコンなどに代官をおいて5月に帰国の途についた後、イタリアにおける教皇との争いに忙殺され、パレスチナへ赴くことはなかった。 皇帝フリードリヒ二世の腹心となった騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァの助言は神聖ローマ帝国全体を動かすほどになり、騎士団は帝国における一大勢力に成長していく。 しかし、中東の十字軍国家においては、ドイツ騎士団が聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団のような影響力を持つことはなかった。

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 教皇グレゴリウス9世はフリードリヒ2世の破門十字軍の成果を敵との妥協であると考え、武力によるイスラム教徒打倒を構想し、公式な十字軍を送ろうとしていた。 しかし頓挫し、テオバルド1世ほかフランスの諸侯による小規模な出陣となったのである。 1239年夏にパレスチナに上陸した彼らがほとんど戦うことはなかった。既にエルサレムや他の領土はキリスト教徒側にある上、休戦が続いており、テオバルド1世らはアッコンの宮廷で詩をよんで過ごし、アイユーブ朝からの領土受領とアスカロン築城をしただけで帰って行った。 そして、1239年に休戦期限が切れた後の1243年にはフリードリヒ2世が聖地に置いた代官に対する現地諸侯の反乱が起き、フリードリヒ2世の支配は失われた。

さらに1244年、モンゴルに追われて流浪して来たホラズムの一派がエジプトのアイユーブ朝に雇われ、ダマスカス政権の同盟国だったエルサレムを占領し、キリスト教徒二千人余りを虐殺し、略奪と破壊を行った。 海岸での争いに没頭してきた十字軍国家の現地諸侯は内陸からの攻撃に虚を突かれた。 城壁のないエルサレムはやすやすと侵入を許し、聖墳墓や歴代エルサレム王の墓は破壊され貴重品は持ち去られ、キリスト教徒の多くは殺害された。

これをきっかけに西欧では再度十字軍派遣の声が高まり、第7回十字軍が派遣される。 しかし、1248年から1254年期に遠征した第7回十字軍は、フランス王ルイ9世が主導してアイユーブ朝のエジプトを攻撃したが、敗北して捕虜となり、占領地を全て放棄した上に莫大な身代金を支払って撤退することに成る。 その後、1271年にアッコン北東の要衝に位置し、ドイツ騎士団が本部としていたモンフォール城が陥落。 騎士団は本部をアッコンに移す。 だが、1291年にはアッコンが陥落し、シリア地方の十字軍国家が全滅する。 そして、ドイツ騎士団は、本部をヴェネツィアに移し、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団はキプロス島に活動拠点を移していった。

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 他方、政治的に対立していたグレゴリウス9世のローマ教会とフリードリヒ2世はどちらもドイツ騎士団を味方に引き入れようとし、騎士団に多くの援助を与えた。 総長ザルツァが教皇とフリードリヒの元を訪問するたびに、寄付金と新たな権限が騎士団にもたらされた。 そして、1230年にはグレゴリウス9世からもプロイセンへの進出を認める勅令がドイツ騎士団与えられ、騎士団とコンラト1世(前節イラスト参照)の間に協定が結ばれた。

グレゴリウス9世教皇とフリードリヒ2世の両方から承認を得た騎士団は、1230年からプロイセンをキリスト教化するための長い軍事活動を開始する。 同年、ザルツァはプロイセン征服の最高責任者として、ヘルマン・バルクをラントマイスターに任命した。 この時ザルツァはクルムラントにおらず、フリードリヒ2世に従ってドイツ王ハインリヒ7の反乱を対処していた。 その後の1233年に騎士団はクルム要塞の特権を発布、移住した市民の権利を規定し、都市の建設を進める。 翌1234年にグレゴリウス9世からクルムの支配、プロイセンの征服と征服地の所有が認められ、東方進出の足掛かりを築いたのである。

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 ===== 続く =====

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