十字軍と騎士修道会・騎士団=56=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第二部“騎士修道会”  ❢❢❢

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◇◆ 異教徒の地・ドイツ騎士団のプロイセン進出 ◆◇

1225年、ハンガリーを追放されたばかりのドイツ騎士団に対し、ポーランドのワルシャワ周辺に勢力を持つマゾフシェ公コンラート一世が、バルト海南岸の異教徒である先住プロイセン人の侵入を防ぐため、クルムラントの防衛を担うよう要請した。 ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァはハンガリーでの失敗を省みて、騎士団の軍事力の増強に加え、世俗世界での有力な庇護者であるフリードリヒ2世との関係の強化に努めていた。 また、ザルツァは教皇にも支援を求め、神聖ローマ帝国フリードリヒ2世の競争者である教皇はザルツァに個人的に 教団としてドイツ騎士団に援助を与えていた。

当時、ポーランド北部地域(エルビングやダンツィヒ、)ではドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪し、ポーランドの庇護を望み騎士団と何世紀も抗争を繰り返した。 騎士団に対抗するためリトアニアのヤゲロー(38歳)はキリスト教に改宗して、1386年12歳のポーランド女王と結婚する形で合同し、ウラディスラフ2世と称し、ヤゲロー朝リトアニア・ポーランド王国が成立した。

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 ドイツ騎士団総長・ザルツァは、ハンガリーでの失敗=聖職者と貴族諸侯の反発を招いた介入=を教訓として、今後のプロイセンでの騎士団国家の形成を正当化するために、神聖ローマ皇帝とローマ教皇への周到な根回しを行い、1226年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世からドイツ騎士団に「リミニの金印勅書」が与えられていた。 この特許状は、騎士団に「クルマーラントとプロイセンラントにおける領邦主権者」としての法的地位を認めるもので、騎士団は異教徒である先住プロイセン人の土地を征服・領有する権利を保証されることを明記したものであった。 そして、1230年、ローマ教皇グレゴリウス9世からドイツ騎士団に、異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖うことができる救済行為であるとして、武力によるキリスト教化を正当化する教勅が与えられていた。

このような段階を踏まえて、ドイツ騎士団は先住プロイセン人の土地の征服に着手する。 この征服戦争は北方十字軍の一環として位置づけられていた。グレゴリウス9世からクルムの支配並びにプロイセンへの侵攻と征服地の所有を認められて東方進出の足掛かりを得ているドイツ騎士団は、1237年にラトヴィアの征服事業を進めていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収する。 リヴォニア帯剣騎士団が1236年にリトアニア人との“太陽の戦い”で敗れ、エストニアでも反乱が続発し、バルト沿岸地域に混乱を招いていたのである。 この吸収による合体によってドイツ騎士団の勢力圏は倍増した。 そして、ドイツ騎士団は東方へと突き進んで行った。 バルト沿岸地帯は北方十字軍が制圧しいく。

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 しかし、1238年初頭にザルツァはドイツで病に罹り、治療のためイタリア・ティレニア海に面した古い歴史を持つ港湾都市にある中世にはヨーロッパ最古の医科大学・サレルノ医学校に向かった。 その地にて彼は、1239年3月20日に没し、バルレッタの騎士団教会に埋葬されたのである。 ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァの死により、神聖ローマ帝国と教皇庁の権力が統合される可能性は失われた。 その結果、ザルツァ総長を欠いたドイツ騎士団は、1241年にはルーシ(古代ロシア)のノヴゴロド共和国に侵攻を開始し、プスコフを占領する。

この地方に侵攻したドイツ騎士団は、東方からの侵略者・モンゴル族が支配の強制である「タタールのくびき」に喘いでいたルーシ人に、彼らの信仰である正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制した。 だが、モンゴルは宗教には寛大であり、一部の蒙古族はネスイスト派のキリスト教徒でもあり、カトリックには反発を示した。 翌年の1242年、ドイツ騎士団はチュード湖(ペイプシ湖)の“氷上の戦い”でアレクサンドル・ネフスキーが率いるノヴゴロド共和国(正教会)の軍に大敗し、ルーシから追い返さる結果を招いた。

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 他方、ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァの死去する以前にグレゴリウス9世教皇とフリードリヒ2世神聖ローマ帝国皇帝の両方から承認を得たドイツ騎士団は、1230年からプロイセンをキリスト教化するための長い軍事活動を開始していた。 1283年にプロイセン全土を平定するまで、50年以上を費やして徐々に征服地を広げ、原住民に異教の信仰を放棄さていった。 騎士団領プロイセンを20の大管区に分割し、各地の修道院を拠点に管区長が選挙で選ばれた総長の指示に従って統治するという中央集権的で能率のよいシステムに基いて運営されていく。 さらに、征服した土地にドイツ人の農民が次々と入植し、ドイツ式の農村が建設されていった。

この圧力の前に先住プロイセン人はドイツ人やポーランド人に同化し、民族語である古プロイセン語も消滅に向かう。 騎士団員は修道士の戒律に従い私有財産の所有も妻帯も許されなかったが、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が次々と入会し人材は豊富となり、フランケン地方からドイツ農民を入植させた。 それらの収益を基にし、14世紀には騎士団領は繁栄の頂点にむかうのである。 しかしながら、プロイセンの東隣、ラトヴィアの南隣にあたるリトアニアでは、多神教を奉じるリトアニア人の「原リトアニア」と、東方正教会を奉じる東スラヴ人の「ルテニア」とが国家連合を形成して「リトアニア大公国」が出現する。 ドイツ騎士団はこの異教徒の強国との間で恒常的な戦闘を続けることになる。

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===== 続く =====

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