十字軍と騎士修道会・騎士団=57=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第二部“騎士修道会”  ❢❢❢

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◇◆ ケーニヒスベルク (プロイセン)のドイツ騎士団 ◆◇

1410年7月15日、現在のポーランドの北部にある、グルンヴァルト村・タンネンベルグ村とヴォドヴィゴヴォ村の間にある平原でドイツ騎士団の支配を嫌い、プロシア南部地方に移住し居住する混血のバルト・ドイツ人が戦いの狼煙を上げた。 彼らはプロシャ連合を結成してポーランド王国に直接従属していた。 プロシア連合を庇護するポーランド王国とプロシア連合支配を目論むドイツ騎士団の激しい戦いが始まったのである。

当時のポーランドでは、それ以前の時代にポーランド君主を輩出していたピヤスト家のうち、シレジア(ポーランド南西部からチェコ北東部)地方一帯を支配するピヤスト家系諸侯の多くは、ヤキュウォ家のヴワディスワフ2世のようなピャスト家の人間でない者がポーランド王位を継承することに反対した。 彼らはピャスト家の人間とりわけシロンスクのピャスト家系人間がポーランド王位を継承すべきであるという野心を捨てず、ドイツ騎士団側に大援軍を送った。

シロンスク・ピャスト家は13世紀半ばに起こった“バトウの欧州遠征(蒙古軍のポーランド侵攻)”の災禍から領地を復興するため積極的に神聖ローマ帝国(ドイツ)の諸侯に働きかけて大量のドイツ人移民を受け入れており=ゲルマンの東方植民=、この交渉の過程で醸成されたドイツ諸侯との個人的な結びつきを利用することで、長年にわたりシロンスク・ピャスト家が主導する形のポーランド再統一という構想を追求していた。 また反対に、クラクフ(ポーランド南部)をはじめとするポーランドの各都市に形成されたドイツ系商工民の社会の多くは、王侯貴族の子弟から構成されるドイツ騎士団とは政治的に常に対立しており、彼らはポーランドを支持した。

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 ポーランド王兼リトアニア大公であるヴワディスワフ2率いるポーランド・リトアニア連合軍は、プロイセン連合加盟諸都市の市民が主力部隊で、その構成はポーランド人、リトアニア人、ドイツ人、バルト・ドイツ人であり、そこにボヘミア人(チェコ)、ルーシ人(ロシア)、リブカ・タタール人、オランダ人の援軍を加え、39,000人だった。 一方、他のいくつかの騎士団を含むドイツ騎士団は、騎士団長ウイリッヒ・フォン・ユンキンケンを指揮官とし、27,000人であった。

7月15日、ドイツ騎士団はグルンヴァルト村の南方に陣営を整えた。 対する連合軍は、ポーランド国王が朝のミサを行っていたため配置が遅れていた。 騎士団側も自分から事を仕掛けることを望まず、正午近くになってからようやく戦闘が始まった。 戦いが開始されると、リトアニア軍が先陣を切って攻撃を開始した。 騎士団の左側面への最初の攻撃ののち、主にタタール人からなるリトアニアの軽騎兵は沼沢地へと撤退し、騎士団はこれを追走した。

一時はポーランド国王の陣営まで兵を進めたが、ここでリトアニア軍が体勢を立て直し、騎士団へ反撃した。実はこれは攻撃が失敗して敗走したのだと見せかけて敵兵をおびき寄せ敵陣を間延びさせるという、機動力のあるタタール人軽騎兵を利用した陽動作戦であり、ドイツ騎士団はこれに気づかずポーランド・リトアニア軍の罠に嵌ってしまった。 これによってドイツ騎士団側の左翼が前に出て陣形が伸びたところを見計らい、ヴワディスワフは敵の右側面への総攻撃を命令した。

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 最後には、ポーランド貴族の重騎兵軍団が正面から騎士団の隊列を打ち破り、連合軍の勝利に終わった。ユンギンゲンは死亡した。 野営地に撤退する途中に、戦争に協力したポーランド人の農民に殺されたと言う。 この戦いの結果、騎士団は西プロイセンを失った。 エルビング市を中核とするポーランド北部域は公にポーランド王国からの直接の庇護を求めるようになり、1440年(戦後30年)にはダンツィヒやエルビングなどの20都市と領地つき僧侶53人はダンツィヒを盟主として、ドイツ騎士団に対抗するプロイセン連合を組織した。

1454-1466年の十三年戦争※後、ポーランド北部地域は、1569年には正式にポーランド王国に加盟し、王領プロシアにおける司祭の選定権をドイツ騎士団から剥奪したが、騎士団にはポーランド国会で議席を提供し国政参政権を与えた。 しかし、司祭の独自選定権の騎士団は拒否し、1467年に司祭戦争が勃発。 1479年に騎士団は敗戦する。 しかし、ドイツ騎士団の戦闘はその後も継続した。

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 ☛ ☞  十三年戦争は、1454年から1466年の13年間にポーランド・リトアニア合同のポーランド王国と同盟を結んだプロシア連合とドイツ騎士団との間で行われた戦争である。 ドイツ騎士団から独立を得るための、プロシア諸都市と地方貴族の反乱として始まった。 プロシア連合は、ポーランド王カジミェシュ4に助力を請い、プロシアをポーランド王国に取り込むと申し出た。国王がそれを承諾すると、戦争はプロシア連合が支援するポーランドとドイツ騎士団の支援者との間で起こった。 この戦いはプロシア連合とポーランドの勝利に終わり、第二次トルニの和約が締結された。 その後すぐに、プロシアのエムルラント司教領の独立をポーランドと争った、司祭戦争(1467 – 1479)が起こり、ドイツ騎士団は、首都マリーエンブルグの東部地域を失う。 更に、ケーニスブルグの東プロイセンを失い、騎士団総長は封建関係を結ぶジグムント1世(ポーランド王国)の臣下となった。 そして、プロイセン連合は解散した。

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===== 続く =====

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