十字軍と騎士修道会・騎士団=58=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第二部“騎士修道会”  ❢❢❢

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◇◆ ポーランド、リトアニアのドイツ騎士団 ◆◇

ドイツ騎士団のポーランド・リトアニアにおける足跡を追記しておこう。 1326年–1332年のポーランドとドイツ騎士団の戦争(1326年-1332年)後、ポーランドはリトアニアに支援を求めポーランド・リトアニア連合は、1409年–1411年にポーランド・リトアニアVsドイツ騎士団の戦争を起こした。 前節で記載のように連合国側は、1410年に“タンネンベルクの戦い”でドイツ騎士団を討った。

その結果、戦争前の1407年当時、ドイツ騎士団はプロイセン、ボメレリア、ジェマィティア、クールラント、リヴォニア、エストニア、ゴットランド島、ヒーウマー島、サーレマー島、等々の領土を獲得していたが、プロイセンの西部を失い、ポーランド北部のエルビングは公にポーランド王国からの直接の庇護を求めるようになり、30年後にはダンツィヒやエルビングなどの20都市と領地つき僧侶53人はダンツィヒを盟主としてプロイセン連合を組織した。 ドイツ騎士団の勢力範囲は極端に縮小して行った。

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 14世紀後半に入ると、騎士団の専権的支配に対抗した在地勢力や領主などがポーランド王国側となる。 ドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝の権威をバックに、ポーランド北部クヤーヴィ、ポモージェ、ドブジュン、やマゾフシュに領土を拡大する。 その後、15世紀に入り、ドイツ騎士団は、ポーランド・リトアニア連合の抗戦に晒された。 騎士団領の各商業都市はドイツ騎士団からの独立自治権を得て、これらの自治都市の互助組織は上記のプロイセン連合に参画していった。 更に、1566年の第二次トルニの和約により、首都マリーエンブルグの東部地域を失い、ケーニヒスベルクの東プロイセンを失い、騎士団総長は封建関係を結ぶ臣下となった。 この状況下で、プロイセン連合は解散した。

1510年に総長に選ばれたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)は、ポーランド・ドイツ騎士団戦争(1519年-1521年)後の1523年にルター派に改宗した。 アルブレヒトは1525年にポーランド王ジグムント1世に臣従の誓いをしてジグムントの臣下となり所領は失う。 ドイツ騎士団の支配する地域は、ホーエンツォレルン家を世襲の公とする世俗の領邦となりプロイセン公国となった。 だが、ドイツ騎士団はプロイセン領土を失うが、神聖ローマ帝国とリヴォニアに領土はあり、総長・アルブレヒトは公国王に就く。

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 15世紀から20世紀初頭までの欧州でのオスマン帝国との戦争に、ドイツ騎士団は従事する。 ドイツ、オーストラリア、ボヘミヤからの騎士は、ハプスブルク君主国の傭兵を先導する戦場指揮となり戦う。 その後、1809年、ナポレオンは騎士団に解散を命じ、騎士団の軍事歴史は幕を閉じ、1810年までに所轄した多くの領土を失った。 ただし、ナポレオンの関与できないオーストリアでは継続した。 1804-1923まで、ハプスブルク家が総長となり司祭であった。 そして、1929年、騎士団支部はローマ・カトリック修道会に改宗し、名はthe Deutscher Orden (“German Order”)と変えた。  1938年、ナチスドイツのオーストリア併合(独墺合邦)の影響でGroßdeutsches Reich の圧力を受けたがローマ・カトリック修道会はイタリアで救済され、1945年にドイツとオーストリアで再構成した。 20世紀後半までにはチャリティー団体と医療施設になった。

現在カトリック支部は、約1000人のメンバー、ローマ・カトリック司祭が100人、200人の修道女と700人のアソシエイトがいる。 オーストリア、チェコ、ドイツ、イタリア、スロバキア、スロベニアの6ヶ所で構成されている。修道女は、主に病人とシニアの世話をし、アソシエイトはオーストリア、ベルギー、チェコ、ドイツ、イタリアで活動している。

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 追記として; リヴォニア騎士団は、ドイツ騎士団リヴォニア地域にあった自治的な分団で、1435年から1561年までリヴォニア連盟に参加していた。シャウレンの戦いサモギティア人に敗北した後、リヴォニア帯剣騎士団の残党はドイツ騎士団に吸収され、1237年にリヴォニア騎士団として分団を組織した。

1237年から1290年までに、リヴォニア騎士団はクールラントリヴォニアセミガリアの全域を征服したが、ロシア北辺への侵入の際はラコボルの戦い(1268年)で撃退された。 1346年、騎士団はデンマーク王ヴァルデマー4世からエストニア公国を買い取った。 騎士団領内での人々の暮らしはバルタザール・ルソヴの『リヴォニア地方年代記(Chronica der Provinz Lyfflandt)』から窺い知ることが出来る。

1435年9月1日、リヴォニア騎士団はスヴィエンタの戦いに敗れ、団長および高位の騎士数名といった指導層を失ったが、このことは騎士団をリヴォニアの先住者たちへと近づけることになった。 1435年12月4日にヴァルカで結ばれたリヴォニア連盟は、リヴォニア大司教、クールラント司教、ドルパト、エーゼル=ヴィーク、レヴァルの3都市によって調印された。 彼らはリヴォニア騎士団とその封臣たちの代表、リーガ、ドルパトおよびレヴァルの市参事会の代理人達である。

1410年のグルンヴァルトの戦いで大敗を喫して以後、ドイツ騎士団は衰退の一途をたどり、1525年にはアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクによってプロイセン地域が世俗化することになったが、リヴォニア地域の分団は独立状態を維持していた。 1560年、リヴォニア戦争において騎士団はエルゲメの戦いモスクワ・ロシアの軍勢に決定的な惨敗を喫した。 窮地に陥ったリヴォニア騎士団は、1557年に起きたリガ大司教ヴィルヘルムと騎士団との争いに介入したポーランド王リトアニア大公ジグムント2世アウグストに、庇護を求た。

1561年、ジグムント2世アウグストの代理人であるミコワイ・ラジヴィウ・チャルヌィ黒髪のミコワイ・ラジヴィウ)との間に結ばれたヴィリニュス協定により、最後のリヴォニア騎士団長ゴットハルト・ケトラーは騎士団を世俗化してルター派プロテスタントに改宗した。 騎士団領の南部はケトラーとその家族が統治するクールラント・ゼムガレン公国となったが、騎士団領の残部の大半はリトアニア大公国に接収された。エストニアの北部地域は、同時期の北方七年戦争によってデンマークとスウェーデン領有されることとなった。

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 ===== 続く =====

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