草原の王国・回鶻可汗国 = 03 =

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル() は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

袁紇部

草原の歴史俯瞰 《三》

モンゴル高原をめぐって拓跋部(タクバチブ、鮮卑族の一部族で、華北に北魏などの王朝を建てた)の代国や北魏と争っていた袁紇部(高車)は、後に台頭してきた柔然(ジュウゼン)に4世紀末から5世紀初頭に柔然可汗国に従属した。 また北魏と数度戦い、390年、道武帝の北伐で大敗を喫し、429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、高車諸部族は北魏に服属し漠南へ移住させられた。
一時期、高車諸部は孝文帝の南征に従軍することに反対し、袁紇樹者を主に推戴して北魏に対して反旗を翻したが、のちにまた北魏に降った。 487年、高車副伏羅部の阿伏至羅(アフクシュラ)は柔然の支配から脱し、独立を果たして阿伏至羅国を建て、柔然やエフタルと覇権を争っていた。 しかし、6世紀に至り、柔然に敗れて高車は滅亡した。

中央ユーラシアは6世紀に入って、チュルク系遊牧国家の勢力が支配する。 もともとはジュンガル盆地(新疆ウイグル自治区北部)の北部からトルファン北方(天山山脈東部)の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事していた。 しかし、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国=突厥帝国などと呼ばれる=を建て、下記のごとく 中央ユーラシアの覇者となる。

柔然

柔然の臣下であった突厥の土門が突厥の指導者に就いた。 5世紀後半は柔然隷属下の突厥や他の奴役部族が絶え間なく逃亡・反抗を繰り返していた。 487年に高車諸部族10万人が30年に及ぶ大規模な反乱を起こすと、力が衰えた柔然の突厥部への統制は緩和された。
制約を脱すると畜産品や鍛鉄による手工芸品を生産して、土門は西魏や西域との貿易を行い、6世紀初頭には西魏との間に正式な通商を結ぶ。 西魏の大統12年(546年)、北の鉄勒(テツロク)が柔然を攻撃してきたため、土門は突厥部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させた。 土門はこれに乗じて柔然に求婚した。

しかし、柔然可汗は突厥が鍛鉄奴隷の身分なので激怒し、使者を送って罵った。 土門はその使者を斬るなり柔然の支配から離脱し、西魏に遣使を送って朝貢し、西魏に求婚した。 大統17年(551年)6月、土門は西魏の長楽公王を娶って妻とした。 この年、西魏の文帝が崩御したので、土門は遣使を送って弔問し、馬200匹を贈った。 552年1月、土門は柔然を撃ち、懐荒の北にて大破した。 柔然王阿那譲は自殺し、その子は北斉へ逃れ、柔然の余衆は阿那の叔父を立てて可汗としたが、土門は遂に自ら伊利可汗と号して独立し、突厥可汗国を建てた。

553年に突厥可汗国は三代目の木汗可汗(ムカン・カガン)を拝戴した。 即位するなり柔然を撃ち滅ぼし、さらに西の挹怛(エフタル)を破り、東の契丹を敗走させ、北の契丹(キルギズ)を併合し、諸外国を次々と征服していった。 これにより突厥の版図は、東が遼海以西、西が西海(アラル海)に至り、南は沙漠(ゴビ砂漠)以北、北は北海(バイカル湖)に至る大帝国となった。 だが、582年に突厥は東突厥と西突厥に分裂し、8世紀になるとウイグルがカルルクと共に突厥を滅すことに・・・・・・・・。

エフタル

6世紀~7世紀の鉄勒=突厥以外の北方遊牧人=時代にはウイグルは烏護,烏紇,韋紇などと漢書に記され、やがて迴紇,回紇と表記されるようになるのだが、当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に対し、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。 隋代に42部を数えた鉄勒諸部=アルタイ以西に31部・勝兵88000、以東に11部・勝兵20000=は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200000)、その中でも回紇(ウイグル)部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀(セツエンダ)部と争っていた。

吐迷度(ツマイト)が回紇部の俟利発(イルテベル:部族長)であった。

648年、突厥の車鼻可汗(シャピカカンの婿であり吐迷度の兄の子である烏紇(ウグル、部族長)が吐迷度を忙殺した。 事の起こりは烏紇が吐迷度の妻と姦通し、露呈を恐れて俱羅勃(キュレビル)とともに謀反を起こして突厥に逃亡した。 2人は車鼻可汗に帰順し、婿養子となった。 烏紇は10騎余りを率い、吐迷度を夜襲して殺すと、回紇部の俟利発(イルテベル;部族長)位および唐からの官位を簒奪した。 これを聞いた唐の元礼臣は烏紇を新たな回紇部の俟利発および瀚海都督に認めるため、自分のもとへ来るよう烏紇を招き寄せた。

しかし、これは元礼臣の策謀であり、俟利発および瀚海都督になることを認めるというのは嘘であった。そうとも知らない烏紇は数騎を率いて元礼臣のもとに訪れると、元礼臣に捕らえられ、斬首された。

突厥

・・・・・突厥(巨大帝国)の分裂、回紇(ウイグル;勇猛な新興勢力)の内紛には唐の策動が見え隠れするが、回紇部に吐迷度の子婆閏(バニン)が俟利発(イルテベル;部族長)位に就き、西突厥との抗争に邁進する。 蒙古草原の覇権をかけた戦いである。

651年、西突厥の阿史那賀魯(アシナカロ)が北庭(東天山山脈北麓の唐直轄地)を攻撃 占拠した。 この侵略に唐・高宗は将軍の領兵2万に回紇部の5万騎を率いさせて阿史那賀魯を撃破し、ふたたび北庭を取り戻した。 また、655年 婆閏は回紇部の兵を唐の征夷将軍に従軍させて高句麗征伐に参加した。
更に、656年、阿史那賀魯がまた辺境を犯したため、唐は程知節(テイチセツ)・蘇定方(ソテイホウ)の二将軍の領兵と回紇部の兵を併せて阿史那賀魯を陰山で大破し、さらに金牙山でも破って西の耶羅川まで駆逐した。 これによって西突厥の阿史那賀魯が石国(現:タシケント)に逃走したので、婆閏は蘇定方に随従して阿史那賀魯を追撃した。 婆閏と蘇定方が石国西北の蘇咄城まで迫り、阿史那賀魯を捕えて洛陽に送った。

唐はこれらの功により婆閏を右衛大将軍兼瀚海都督とした。

 羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝は、周辺の異民族・諸国家に対し政治的・軍事的・文化的な従属関係をつくりあげたが、これらの具体化は、領域化(内地化)・覊縻・冊封などの形態を取った。 まず、領域化とは、支配地に内地と同じ州県を設置し、中央から官僚を送り込んで、そこの住民を中国の国法下に置いて直接支配することである。
次に、冊封とは、周辺民族・国家の首長に王や侯といった中国の爵号を与え、形式的な君臣関係の元に中国の支配秩序に組み込むことである。 両者に対し、覊縻とは、特に中国に近い友好的な国王・首長を選び、都督・刺史・県令などに任じ、彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における官吏であるという名目で行使させたものである。 このような羈縻政策が適用された地域を羈縻州という。 したがって羈縻州の長官は唐に対しては一地方官吏であり、部族内部から見れば王または首長であった。 羈縻の羈は馬の手綱、縻は牛の鼻綱のことをさす。

東西突厥

 ===== 続く =====

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