草原の王国・回鶻可汗国 = 05 =

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル(维吾尔) は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

唐建国頃

回鶻(ウイグル)可汗国と唐王朝/ソグド

私にはウイグル族の友人が多い。 彼・彼女らは欧州系と言い得る外貌で 総じて髭が濃い。 顎鬚などは勇壮であり、知り合いの女子大生マリアムなど良く見れば薄っすらと髭がある。 中国の諸将軍の挿絵などで見かける英雄・豪傑は全て北方系の騎馬遊牧民の末裔であろう。 言うところの漢人は一重でひげを蓄えたところでドジョウか山羊である。 また 中国の餃子・シュウマイを含め、肉・小麦の料理法は北方民族のもの、イタリヤ料理のなどはウイグル料理の伝承ではないかと思う。 地中海からイベリア半島はイスラム文化圏とローマ帝国が支配したキリスト文化圏の鬩ぎ合いの海だ。

事実、ウイグル族はローマ帝国が崩壊するまで各地の王朝・王国の中枢で有力な地位を占め、政局を左右したてきた民族である。 唐はウイグルル族がいなければ、あれだけの繁栄と長期政権を維持できなかった。 また、大蒙古帝国もウイグル族の知恵がなければ一大帝国を築けなかったと思われる。

ウイグル地勢

745年、回鶻(ウイグル)の頡利発(イルテベル:部族長)・骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が東突厥の白眉可汗(ビャクミカカン)を攻め殺し、頓啜羅達干(トンチョラ・タルカン:官名)を唐に遣わして白眉可汗の首を献上させると、唐によって大将軍に拝された。 唐の羈縻政策(きびせいさく、前節参照)で地位をえた骨力裴羅は、さらに領土を広げ、東は室韋(シツイ)、西は金山(アルタイ山脈)、南は大漠(ゴビ砂漠)と接するまでとなり、古の匈奴の地を手に入れる。
彼な拡張した封土を支配する者として懐仁可汗(カイジンカカン)と号し、回鶻可汗国(ウイグルカカン国)を立国した。 ウイグル族がついにモンゴル高原の覇者と成ったのである。 彼は747年まで治政する。

ウイグル可汗国は軍事大国となり、唐と周辺民族の戦争では唐を保護するため兵力を拠出し、何度も戦に出ていく。 懐仁可汗(カイジンカカン、骨力裴羅)の子として生まれた磨延啜(モユン・チョル)は太子として第二代可汗として幾多の戦いに参戦していた。 747年の父が崩御した。 磨延啜が葛勒可汗(カツロクカガン)として即位する。 彼は、唐に入朝した際に英武威遠毘伽可汗(エイブイエン・ヒルゲカガン)の称号を授かった。

ソグド人

一方 ウイグル可汗国領内では、漢中より渡来た中国やソグド人の影響で定住生活化が進み、遊牧民が多かった回鶻(ウイグル)牧民の生活に混乱が起きた。 回鶻可汗国の内部での文化的混乱によって君主・英武威遠毘伽可汗の氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏は徐々に力を失っていき、第二代可汗葛勒可汗(カツロクカガン、?- 759年)→牟羽可汗(ホウウカガン、?- 779年)→合骨咄禄毘伽可汗(コウコツトツロク・クピカガン、?- 789年)→忠貞可汗(チュウテイカガン、?-790年)→奉誠可汗(ホウセイカガン、?- 795年)と王統はその血筋に引き継がれる。 しかし、懐仁可汗から数えて6代目の奉誠可汗の代で血筋が途絶える。

因みに、ソグドド人は、シルクロードをシルクロードたらしめ、シルクロードを経済的に支配していたと言われている。 居住地であるソグディアナがシルクロードの中間に位置することから、アケメネス朝支配下にあった頃より広く交易に従事し、マケドニアのアレクサンドロスス大王の征服、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても、独自のアオドグ゙語を守り、ウイグル文字の祖であるソグド゙文字を利用していた。  ウイグルル文字が蒙古文字に転成して行くのだが、宗教的にはゾロアスター教を信奉していた。

後に一部がマニ教を信奉して、東方のイラン系精神文化を中国にもたらし、その活動範囲は東ローマ帝国から唐の長安にまで及んだが、イスラム勢力の台頭により イスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われた。 しかし ウイグルル族が文化的遺産を継承している。 彼等の本願地・ソグディアナ地方はのちに、ウズベグ人南下によるテュルク化が進んでいった。
また、この地方は名馬の産地です。 漢の武帝は“血汗馬”を求めて20数余万の軍団を遠征させている。 更に 蛇足ながら、東京・上野公園のイスラム寺院は、ソグド゙の末裔、ロシア革命期の亡命者の子孫・在日ソグド人の組織が建立したのです。 外人タレント第一号のロイ・ジェームスさんは建立推進の中心人物が長子です。

ソグデリア

磨延啜が葛勒可汗(カツロクカガン)として即位=747年=して、唐王朝の外延を警護する軍事集団として権勢を伸ばしていた頃の755年、突厥出身の唐の軍人安禄山が反乱を起こし=安史の乱=、首都長安を占領する。 粛宗(シュクソウ、唐第10代皇帝)からウイグル可汗国に援軍が要請された。

玄宗

 ===== 続く =====

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