草原の王国・回鶻可汗国 = 07 =

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル() は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

唐周辺国

唐、ウイグルへの援軍要請

756年9月、唐朝の第10代皇帝として逃亡中の皇太子の李亨が霊武で肅宗(シュクショウ)として即位した玄宗の次男は、ウイグル帝国に援軍を求めるため、モンゴリアに使者として敦煌郡主の李承宷(リ・ジョウシン)と、テュルク系の九姓鉄勒僕固部出身の僕固懐恩(ボクコカイオン)、ソグド系蕃将の石定番(セキテイヴァン)らを派遣した。
10月に、ウイグル帝国の帝都・オリドバリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗(カッロクカカン)が要請に応じ、娘の毘伽(ビルゲ)公主を李承宷に娶らせた。 他方、756年11月から12月にかけて、安禄山軍の蕃将・阿史那承慶(アシナショウケイ)は自身が突厥王族出身でもあったことから、突厥・トングラ (同羅)・僕骨軍の5000騎を率いて、長安から北へ進軍し、粛宗のいた霊武を襲撃した。

葛勒可汗率いるウイグル軍と唐の郭子儀(カクシギ)軍は合流し、阿史那承慶軍を撃破する。 一方、長安を奪った安禄山であるが、間もなく病に倒れ失明し、次第に凶暴化。 さらに、皇太子として立てた息子の安慶緒(アンケイショウ)の廃嫡を公然と口にするようになると、安慶緒及び側近達の反発を買い、安禄山は757年正月に暗殺された。 安慶緒が父の後を継いで皇帝となる。 安禄山の盟友であった史思明(シシメイ)はこれに反発し、范陽(北京)に帰って自立してしまう。

他方、粛宗は757年2月には鳳翔(陝西省鳳翔県)にまで南進する。 757年9月、葛勒可汗は太子・葉護(ヨウゴ゙)と将軍帝徳ら3000~4000騎を唐援軍として出兵する。 粛宗は喜び、元帥の広平王(後の代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした。 その結果、唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり、広平王を総帥とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。

郭子儀

757年10月、広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて燕軍と陝州の西で戦った。 この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯し、葉護太子は大首領の達干(タルカン:称号)らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。 また、郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。

郭子儀と葉護太子の軍は賊軍を20里あまり追撃。 賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。 燕軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡って敗退した。 11月、広平王、僕射郭子儀、葉護太子らが長安に凱旋する。 葉護太子は司空忠義王に封じられ、金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束する。

翌758年5月、ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。 粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗(エイブイエン・ヒルゲカガン)に冊立する。 その後の759年4月に葛勒可汗が死去、寧国公主は唐へと帰国する。 すると、すでに何らかの罪で殺害されていた長男の葉護太子でなく、末子の移地健が第三代ハーンとして即位した。  これがブグ・カガン(牟羽可汗)である。
他方、759年3月、史思明は洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。 しかし761年2月、史思明も不和により長男の史朝義に殺害され、“安史の乱”の立役者二人が消え去ったのである。 だが、762年4月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位する。

※ 乾元二載(759年)四月に廻紇(ウイグル)の毘伽闕可汗(ビルゲ・キョル・カガン)が死んだ際に、「その長子、葉護は以前に殺されていたので、廻紇は末子の移地健(牟羽可汗)を即位させ、その妻を可敦(カトゥン:皇后)とした」という記述からすると、帰国後、間もなく殺害されたものと思われる。

代宗

762年8月、唐の代宗は安政権の残党史朝義を討伐するためにウイグルのブグ・カガンに再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグを誘い、ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。 唐の使節・劉清潭はそれに遭遇したので、唐への侵攻を踏みとどまるようブグを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた。

劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。 僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得。 説得に応じたウイグル軍は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加する。 762年10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れんとしていたが、763年正月、追撃され、自殺する。 こうして8年に及ぶ“安史の乱”は終結した。 なお、同763年10月、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。

その後,この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。 また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。 これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。 以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。 唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)、契丹(キッタン)が台頭する。

ティソン・テシュン

===== 続く =====

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