草原の王国・回鶻可汗国 = 09 =

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル() は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

ベゼクリク石窟

吐蕃征討と可汗の廃立・擁立の狭間で・・・・・

貞元3年(787年)8月、武義成功可汗は唐との関係を改善するために唐に求婚し、咸安公主(イアンコウシュ)を娶った。 その後もウイグルと唐、両国の平和が保たれ、武義成功可汗は国号を回紇から回鶻に変えるとともに、再び唐から長寿天親可汗の称号を賜った。 しかし、武義成功可汗(唐名)こと合骨咄禄毘伽可汗(アブク・クトゥルグ・ビルゲ・カカン/回鶻名)は789年に他界してしまった。 彼の長子多羅斯(タラス)が忠貞可汗(チュウテイ・カガン/唐よりの称号)として立った。 彼は父王の后・咸安公主を妻に迎えている(これは北方遊牧民のレビラト婚)。

この年(789年)、吐蕃が回鶻に従属していた白眼突厥(白服突厥),三姓葛禄(ウチュ・カルルク),沙陀部などへ贈物を贈って共に北庭大都護府を攻撃した。 東方では奚,契丹の反乱が起きていたため、忠貞可汗は頡干迦斯(イル・オゲシ)を派遣して救援に向かわせた。 しかし、頡干迦斯率いる回鶻軍は勝てず、北庭大都護府が陥落し、北庭大都護(最高官吏)の楊襲古は兵と共に西州に奔走した。 ウイグル軍はモンゴリアまで撤退し、ウイグル側にいた沙陀部も吐蕃に降った。

その後、頡干迦斯は楊襲古と連合して北庭を取り返すべく5-6万の兵で攻めたが、大敗を喫し兵の大半が死んだ。 このとき楊襲古が、再び 西州に逃げようとしたので、頡干迦斯は彼を殺した。 一方で葛禄(カルルク)が勝ちに乗じて浮図川を奪ったので、回鶻は大いに恐れ、北西にある部落の羊馬を牙帳の南へ遷してこれを避けた。

ウイグル台頭

この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的にウイグル軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利し、トルファン盆地とタリム盆地北部がウイグルの領国となるのだが、 この戦いの最中の貞元6年(790年)4月、忠貞可汗は少可敦(ショウカトウン、第二皇后)の葉公主に毒殺され、忠貞可汗の弟が篡立して可汗となった。 しかし、まもなく彼も国人たちに殺され、忠貞可汗の幼子である阿啜(アチュル)が立てられ、可汗となる。 因みに、少可敦の葉公主は、僕固懐恩(ウイグルカカン国建国の君主)の孫で、回鶻葉護(ウイグル・ヤブク)の娘。

その混乱の中の790年6月、頡干迦斯(イル・オゲン)将軍が西の吐蕃征討から帰還すると、可汗阿啜と国人たちは彼を出迎え、ひれ伏して可汗廃立の事情を説明するとともに、留守中に惨事を起こしたことを陳謝した。 事情を聞いた頡干迦斯は新たな可汗に臣下の礼を執るとともに忠貞可汗の死を悲しんだと史書は記す。 そして10月、可汗阿啜は達比特勤梅録将軍を唐へ派遣して忠貞可汗の死を報告した。

北庭古城

791年、ウイグル軍は北庭を奪還、また唐軍と共に塩,霊州へ攻撃を掛けて陥落させ吐蕃の首領を捕えた。 この後の、タリム盆地~河西地域~隴右~漠南一帯を巡る戦争は50年に渡る。 時間の先を概略すれば、保義可汗(808年 – 821年)の治世には、ジュンガル盆地を制圧してカルルクを服属させ、タリム盆地を制圧するが、南東の戦線では吐蕃が優勢を保持する状況が維持される。 その後は・・・・・

・ 809年に吐蕃が再度霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻-唐間の直道(参天可汗道)を遮断。
・ 813年、漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し周辺も制圧された。
・ 821年、連合を図るため唐から公主が降嫁。
・ 824年に吐蕃と唐が停戦に至って以降は、専ら西部で戦闘が行われ、840年に和睦するまでの間に、漠南を奪還し河西地域を征服した。

さて、貞元7年(791年)5月、徳宗は鴻臚少卿の庾鋋を派遣し、阿啜を冊立して奉誠可汗とした(以降、奉誠可汗と表記)。 奉誠可汗は 8月、回鶻は吐蕃と葛禄(カルルク)を北庭で撃ち、これに勝利した後、奉誠可汗はこの戦いで得た捕虜を唐に献上している。 因みに、奉誠可汗の可敦(カトウン:皇后)は咸安公主で、彼女は先々代の合骨咄禄毘伽可汗(第4代可汗)、忠貞可汗(第5代可汗)、奉誠可汗(第6代可汗)、次期の懐信可汗(第7代可汗)と四代の可汗(君主)の皇后に収まっている。

ウイグル歴代

貞元11年(795年)2月、奉誠可汗が死去し、子がいなかったため、国人は宰相である骨咄禄(クトゥルク)を立てて可汗とした。 骨咄禄はもと阿跌(エディズ)氏で、幼くして回紇(ウイグル)の大首領に養われ、天親可汗(合骨咄禄毘伽可汗/武義成功可汗)の時に何度か主兵を率いたため、諸酋に慕われるようになり、回鶻可汗国(ウイグルカカン国)の相(宰相)となっていた。
また、骨咄禄将軍(クトゥルグ・センチュン)とも呼ばれていた。 骨咄禄は阿跌氏であったが、薬羅葛(ヤグラカル)氏に恩義があったため、あえてその氏族名を名乗らなかった。 こうして前皇までの薬羅葛氏の政権が終わり、阿跌氏の政権が始まった。

795年6月、唐は秘書監の張薦に節を持たせて骨咄禄を冊立し、騰里邏羽録没密施合禄胡毘伽懐信可汗(トウリラフロク・ボロミス・コログビルガ・カイシンカガン/月天より福を授かりし勇猛にして誉れ高き賢明なる懐信カガン)称号を授けた。 当時、回鶻可汗国(ウイグルカカン国)内において、第4代の武義成功可汗以来迫害を受けてきたマニ教であったが、懐信可汗の代でふたたび受容されることとなった。 回鶻可汗国は回鶻可汗国の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。 今日、トルファンのベゼクリク石窟に残る壁画がその証である。

=この史実は、トルファン出土のウイグル文書に「803年の羊年にウイグルのブクク汗(懐信可汗)が高昌にまでやって来て、マニ教東方大司教区のトップである慕闍(モジャク)に会い、マニ教団第三位の高僧であるマヒスタクを3人もモンゴリアに設置することを相談した」とあることによって論証されている。=

武則天

 ===== 続く =====

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