草原の王国・回鶻可汗国 = 10 =

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル() は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

故地

吐蕃との戦争の中で、ウイグルカカン国と唐王朝

永貞元年(805年)、懐信可汗が死ぬと、唐は詔で鴻臚少卿の孫杲に臨弔させ、後継ぎを冊立して滕里野合倶録毘伽可汗(トウリヤコウクリョクビガカガン)を冊立している。 回鶻可汗国(ウイグルカカン国)は元和(806年-820年)の初め、再び朝献し始め、摩尼(マニ)を唐に至らせたと資料にある故、マニ教が復興していた。 また、元和3年(808年)には、滕里野合倶録毘伽可汗は咸安公主の喪を唐に報告させている。 前記のように、咸安公主は四人の四可汗に嫁ぎ(レビラト婚)、回鶻(ウイグル)国にいること21年間に及んでいた。 間もなくして滕里野合倶録毘伽可汗も死んだので、憲宗は宗正少卿の李孝誠に冊拜させて 保義可汗(ホギカガン、唐よりの称号/愛登里羅汨蜜施合毘伽保義可汗;アイテングリデ・クトボルミッシュ・アルプヒルゲ・カカン)を任命した。

即位した保義可汗(ホギカガン)は 元和4年(809年)、唐に遣使を送って国号を迴鶻(回鶻)と改めたことを報告している。 そして、元和8年(813年)4月、保義可汗は使者を唐に遣わして請婚した。 しかし、唐がそれに応じなかったため、保義可汗は3千騎を率いて鵜泉に至り、唐の辺境を脅かした。 唐の辺軍は戒厳令を敷き、両国に緊張が走った。 皇帝・憲宗は使者=宗正少卿の李孝誠と太常博士の殷侑=を送り、回鶻・保義可汗を説得させたが、保義可汗は求婚をあきらめず、更に 強行姿勢をとった。 翌年にまた合達干(アルブ・タルカン)らを送って、再び 強行に求昏した。

マニ教

唐は長慶元年(821年)に憲宗の崩御により、穆宗皇帝(在位:821年-824年)の代に変わり、ウイグルカカン国への公女を嫁がせる許しが出たが、保義可汗はこの年の2月に薨去しまう。 そこで穆宗は皇妹である太和公主を次の崇徳可汗(在位:821年-824年)に出嫁することにし、太和公主が新たな回鶻可敦(ウイグル・カトゥン、皇后)となった。 =回鶻可汗国の可汗にとって 己の皇后が唐の皇女である事で、支配する諸氏族・豪族を抑制する権威になっていた。=

蛇足ながら、穆宗(ボクソウ)皇帝は、父の憲宗が宦官の王守澄によって殺害されると、その王守澄によって皇帝に擁立された。 穆宗は 主体性に欠け、享楽に耽る生活を送っていた。 このため宦官による専横がこの穆宗の時代にさらに顕著化し、“牛李の党争”と呼ばれる官僚らの派閥闘争が激化した。 なすすべもなく、自らの長命のために道士が勧めた金丹中毒により、31歳にして崩御している。 因みに、 穆宗の後継者・敬宗(ケイソウ)皇帝は12歳で景王となり、翌年に皇太子となる。

穆宗の崩御により即位するが、史書によれば暗愚で暴虐な人物であったとされる。 敬宗は相撲などの遊興に耽った上、宦官を粛清するなどしたために、これに不満を持った宦官の劉克明らによって、19歳の時に寝所で暗殺されている。 そして、文宗(ブンソウ)皇帝が 唐朝の第17代皇帝として跡を継ぐが、宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった“甘露の変”で死す。

憲宗・穆宗

上記の保義可汗(808年-821年)の治世には、ジュンガルル(北庭大都護府所在地域)盆地を制圧してカルルクを服属させ、タムリ(タクラマカン砂漠)盆地を制圧し、交易路を確保しているが、南東の戦線では吐蕃が優勢を保持していた。 809年に吐蕃が再度霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻-唐間の直道を遮断していた。 813年、ウイグルの保義可汗は 漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し 周辺を制圧した。 ウイグルカカン国の南東部の辺境は吐蕃に侵食される状況が続いていた。

唐は、長慶元年(821年)2月、保義可汗が薨去したので、崇徳可汗(スウトクカガン)を冊立し、ウイグルカカン国との連合を より強固な結束に図るため 公主を降嫁させる決意したのである。 保義可汗は生前、何度も唐の憲宗に請婚をしたが、ことごとく断られ、ついに唐の辺境を侵すようになっていた。
しかし、保義可汗の他界で、回鶻可汗国と唐帝国のぎくしゃくする問題は霧散したと判断した唐の穆宗は、皇妹(第10皇女)である太和公主を崇徳可汗(スウトクカガン)に出嫁することにした。 他方、崇徳可汗は、同年5月、回鶻宰相の伊難珠と句録,都督の思結,葉護公主,摩尼(マニ僧)ら573人を唐に入朝させて太和公主を迎えるとともに、葉護公主を穆宗皇帝に娶らせた。 互いに王女を嫁がたのである。

世史俯瞰-b

===== 続く =====

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