草原の王国・回鶻可汗国 = 11=

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル() は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

白塔寺

 内乱と可汗国の崩壊

シルクロードの交易路で重要な河西回廊をめぐる吐蕃との戦争は続くが、821年にウイグル、吐蕃、唐の間に三国会盟が締結された。 この長慶会盟は従来、吐蕃と唐との停戦協定とされていたが、近年、森安孝夫が敦煌文書に「盟誓得使三国和好」という文言を発見した他、中国の李正宇もサンクトペテルブルクで同内容の文言を発見したため、ウイグル・、吐蕃・唐の三国間協定であったとされる。 なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイにあるセブレイ碑文が現存しているが、この碑はウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされるが、ウイグルカカン国の西部域・ジュンガールでは吐蕃が背後で操るカルルクが国境を侵食していた。

イニッセ碑文

さて、長慶4年(824年)閏10月、崇徳可汗(スイトクカカン)が迎えた太和公主は金吾大将軍の胡証らに護衛されて回鶻可汗国に到着した。 太和公主は早速、崇徳可汗と面会し、回鶻(ウイグル)風の儀式を受けて回鶻可敦(ウイグル・カトゥン、皇后)に即位した。 崇徳可汗はこの御返しとして唐に遣使を送り、国信4床・女6人・葛禄(カルルク)捕虜4人を献上している。 しかしながら、崇徳可汗が他界し、その弟の曷薩特勒(カツサツ・テギン)が立って可汗に即位した。

この年(824年)に、河西街道(シルクロード)の武威・白塔寺で吐蕃と唐が停戦協定を行なう状況に至るのだが、唐・吐蕃の停戦・不戦協定以降、回鶻軍は専ら西部(ジュンガール)で戦闘を継続し 吐蕃との抗争を繰り広げる。 そして、840年に和睦するまでの間に、ウイグルカカン国は漠南を奪還し河西地域を征服していた。 翌年の宝暦元年(825年)5月、唐は新可汗を冊立して昭礼可汗(ショウレイカガン、愛登里囉汨没蜜施合毘伽昭礼可汗/アイテングリデ・クトボルミシュ・アルブビルゲカカン)とし、826年に絹50万匹、827年に絹25万匹、829年には絹25万匹を馬価絹(バカケン)として下贈している。 これはウイグルに依存している国防費としての対価なのである。

しかし、大和6年(832年)、昭礼可汗はその配下に殺され、従子の胡特勒(コテギン)が立って可汗となった。 大和6年(832年)のクーデターです。 唐は、彼に彰信可汗(ショウシンカカン)の称号で冊立し、可汗号として愛登里囉汨没蜜施合句録毘伽彰信可汗(アイテングリデ・クトボルミシュ・アルプキュリュグ・ビルゲカカン)の称号を加えている。 また、唐は、大和9年(835年)6月、太和公主の所に馬射女子7人、沙陀小児2人を送り、レビラト婚で先代の昭礼可汗から彰信可汗の后と成った憲宗の娘で、穆宗の10番目の妹である太和公主を慰めている。

交易路

ウイグルカカン国で安允合が宰相に就いていた。 彼は同族で異郷の特勤(テキン)を統括する柴革とともに彰信可汗簒奪を計画したが、彰信可汗に発覚し、柴革と安允合は殺されてしまうが、開成4年(839年)、宰相の掘羅勿(キュレビル)は彰信可汗が柴革と安允合を誅殺したことを怨み、沙陀族=サダ族、8世紀から10世紀頃まで、華北-オルドス-山西近辺の地域で繁栄したテュルク系民族・突厥の一部族=を招き寄せて彰信可汗を攻めたため、彰信可汗は自殺して果てる。 国人は㕎馺特勒(コウソウ・テギン)を立てて可汗とした。

回鶻可汗国(ウイグルカカン国)の第7代可汗・懐信可汗の在位は795年から805年の10年間であったが、第8代・滕里野合倶録毘伽可汗は3年間で病死、第9代・保義可汗は11年の長期政権なのだが崇徳可汗(第10代;3年間)、昭礼可汗(第11代;8年間、クデターにて殺害死)、彰信可汗(第12代;6年間、クデターで自害死)、㕎馺特勤(第13代;1年未満)等々。 第11代可汗以降は予期せぬ人事で政権維持が中断されている。 時に回鶻では連年、疫病と飢餓に悩まされた上、大雪にも見まわされたため、多くの羊や馬を死なせてしまっていた。

チベット

そんな中、渠長(キョウチョウ:将軍)の句録莫賀(キュリュグ・バガ)は 宰相の掘羅勿(キュレビル)を恨み、北の黠戛斯(キルギス)軍10万騎を招き寄せて回鶻城(オルド・バリク)を破り、㕎馺特勤と掘羅勿を殺してその牙帳を焼き払った。 これによって回鶻(ウイグル)の衆は散り散りになって諸蕃に奔走することとなり、宰相の馺職(ソウショク)は外甥の龐特勤 (ホウ・デギン)および兄弟5人が差配する計15部を擁して西の葛邏禄(カルルク)に奔走し、残る一部は吐蕃へ、一部は安西(亀茲/タリム盆地)へ投じた。

また可汗の牙帳近くの13部は、烏介特勤(ウグ・デギン、昭礼可汗の弟で、彰信可汗の叔父)を可汗に推戴し、南の錯子山に割拠した。 回鶻(ウイグル)を破った黠戛斯(キルギス)は太和公主を得る。 こうして 北方から南下した黠戛斯(キルギス)族に モンゴル高原に覇を唱えた回鶻可汗国(ウイグルカカン国)は崩壊させられた。 これによって回鶻可汗国は崩壊し、諸部は分散した。

オアシス

  ===== 続く =====

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