草原の王国・回鶻可汗国 = 12=

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル(维吾尔) は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

回鶻時代

 可汗国の崩壊後 

回鶻可汗国の崩壊後、モンゴル高原を支配したのは黠戛斯(キルギス)であったが、その支配は長続きせず、860年代には東方のタタル族によって高原を追い出されてしまう。 以後、モンゴル高原は諸部族が割拠する時代に入り、ジンギスハーンの大蒙古帝国が現れるまで統一政権が生まれなくなる。 一方、回鶻(ウイグル)のいくつかの勢力は逃げ延びた地域で力を持ち、その地で政治力を確立して天山ウイグルや甘州ウイグル,亀茲ウイグルなどの諸王国が生まれることとなった。 即ち、・・・・・・・

開成5年(840年)頃、渠長(キョチョウ:将軍)の句録莫賀(キュリュグ・バガ)は、北の黠戛斯(キルギス)軍10万騎を招き寄せて回鶻城(オルド・バリク)を破り、㕎馺可汗(コンソウカカン)と宰相の掘羅勿(キュレビル)を殺してその牙帳(王宮)を焼き払った。 これによって回鶻可汗国は崩壊し、国人たちは各特勤(テギン)を奉じて各地に散らばった。

そのうち、可汗庭(カガンテイ:可汗の牙帳)近くの13部は、烏介特勤(ウゲ・テギン)を可汗に推戴し、南の錯子山に割拠した。 途中、烏介可汗らは太和公主を唐まで護送する黠戛斯(キリギス)の達干(タルカン)らと遭遇した。 烏介可汗はそれを見つけるなり達干らを殺し、太和公主を奉じて代わりに唐の天徳界まで護送している。

キルギス族

時に宰相の赤心、僕固(ボルク)、特勤の那頡啜(ナイル・チュル)がおり、烏介可汗に臣従せず、犯塞を欲していたため、烏介可汗は先に王子の?没斯(オルズス)を天徳軍戍将の田牟の所へ赴かせ、唐と接触をはかるとともに、赤心を殺害する。 一方、那頡啜(ナイル・チュル)は赤心の7千帳をあわせて東へ逃れたが、のちに烏介可汗によって殺されてしまう。 推戴された烏介可汗(ウケカカン)は 回鶻可汗国は崩壊後の政権維持に努力・奮闘する。

=崩壊の遠因は回鶻可汗国の唐帝国すら併呑しようとする驕りでしょう。 “安史の乱”を境に唐は “甘露の変”が示すように宦官が皇帝を左右する軟弱な政権ではあったが、ウイグルの兵団は黄河の民・唐の定住民には住み分けて共存できなかった上に、回鶻可汗国内の旱魃と唐より感染したペストの大流行が一挙に 領土を遮蔽したのです。=

甘州回鶻-2

史書は記す・・・・・・・
・会昌3年(843年)春、特勤の龐俱遮、阿敦寧の二部、回鶻公主密羯可敦(皇后、カトゥン)の一部、外相の諸洛固阿跌の一部、牙帳大将の曹磨你らの七部、共に3万衆が相次いで幽州に降ったので、唐の皇帝・文宗は詔で諸道に配してやった。
・特勤の?没斯,阿歴支,習勿啜の三部、回鶻相の愛耶勿弘順、回鶻尚書の呂衡らの諸部が振武軍に降ってきたので、三部首領には唐の国姓である李姓を賜い、名をそれぞれ思忠,思貞,思恵,思恩と改めさせ、帰義軍使に充てた。
・その他唐に帰順しなかった者もおり、特勤葉被沽兄李の二部は南の吐蕃に奔走し、特勤可質力の二部は東北の大室韋に奔走し、特勤荷勿啜は東の契丹との戦いで戦死した。

・回鶻尚書の僕固・繹は幽州に至り、太和公主を幽州に帰すことの約束履行を烏介可汗に促した。ある夜、河東の劉?が兵を率いて烏介可汗の営に迫ったので、烏介可汗は驚いて東北の約400里外にまで逃げ去り、室韋の営に依った。
※室韋(シツイ);は、6世紀から10世紀まで中国東北部の嫩江,アルグン川,黒竜江流域に存在していた民族。 モンゴル族の源流と考えられている。

このとき太和公主も同時に逃げ去ったが、烏介可汗に追いつけずにいたところを、豊州刺史の石雄の兵と遭遇したので、ようやく唐に帰国できた と皇后すら護衛できない混乱の様子が史書にある。

甘州回鶻-1

会昌6年(846年)7月、万策尽きた烏介可汗の部衆が幽州に降った。 その折、烏介可汗は妹を室韋(シツイ)に降嫁させている。 時に、回鶻(ウイグル)相の美権者逸隠啜は諸回鶻に迫って、烏介可汗の指導力を諸部長に問いまわしている。 騎馬遊牧民族は、指導者が従属者に十分な遊牧地を与え、支配地域を拡大し、南(農耕定着生活者)の富を略奪して公平に分配、神を祭ることが不可能になれば、別の特勤(テギン;皇族)それを行なえばいいと考える。 従って、禅譲はない。 また、政権を簒奪することも決してないのです。

烏介可汗は 宰相の美権者逸隠啜に金山(アルタイ山脈)で殺され、烏介可汗の弟である特勤遏捻(アチネン・テギン)が可汗に推戴された。

オングート

840年、ウイグルは内乱とキルギス族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家はこのように崩壊した。 このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなる。 一部は吐蕃,安西へ逃れ、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝を建国した。 甘粛に移った一派はのちの960年、甘粛ウイグルをたてる。 他の主力となる一派は、東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)を制圧し、タリム盆地周辺をその勢力下にかかえて、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)を建国する。

武威

  ===== 続く =====

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