草原の王国・回鶻可汗国 = 14=

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル(维吾尔) は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

朱梁

甘州ウイグル王国の発展

塩の専売は古代国家においては非常に重要な財源で、唐でも国家財政が悪化するとその都度塩価が引き上げられた。 そうした際、塩の闇業者は塩を安い闇価格で売っても巨額の利益が出る上、安く買えた民衆はこれに感謝して闇業者を歓迎し、村ぐるみ・都市ぐるみでこれを庇った。 そうした闇業者を相手にいくら政府が取締りを強化しても一向に効果は上がらなかった。

既に財政が傾いていた唐はさらに塩価を吊り上げる、すると各地に塩の闇業者が次々に現れる、それでは専売の塩の方は売れず財政も好転しない、その結果政府はさらなる塩価の値上げをせざるを得なくなる、という悪循環に陥った唐は加速度的にその国力を衰退させ、逆に塩賊はあちこちで兵を挙げ、それらを糾合した王仙芝と黄巣の反乱は瞬く間にその規模を増大させて各地を荒らしまわった。

朱全忠は黄巣の乱において反乱軍に属していた。 しかし反乱軍である黄巣軍は根拠地を持たず全国を流浪しながら拡大してきた軍勢だったため、長安一帯を制圧し斉の建国を宣言するとたちまち兵士たちの統制がとれなくなり略奪殺戮を重ねて大衆の支持をなくした。 上層部でも権力抗争が発生し、前途を見限った朱全忠は唐に寝返り黄巣軍と戦いこれを壊滅させた。

黄巣の乱

  黄巣の乱以後、唐は地方政権に転落した。 朱全忠は物流の中心地である開封の節度使となり、黄巣軍の残党や各地の軍閥と争いながら支配領域を広げていった。 その軍は軍規が厳正で精強であり、農民からは無理な収奪は行わず荒地を開拓し、また唐朝で不遇だった下級士人を登用した。 元来、唐朝では宰相派と宦官たちが争いを重ねていたが、朱は宰相側について宦官たちを一掃した。
その後、宰相たち高級官僚も粛清し皇帝の昭宗を完全に傀儡にした。 そして経済的には不便な土地にあった首都長安から洛陽へ遷都させ、同時に住民も移動させ建物は解体して運び完全に破壊した。 まもなく昭宗は殺され、907年に朱は次の昭宣帝より禅譲をされ後梁を建国した。 それからまもなく元皇帝や一族は毒殺された。

哀帝(アイテイ)は唐朝の第23代(最後)の皇帝。 昭宗の九男。 初めは輝王に封じられる。 昭宗が朱全忠により殺害されると、904年その朱全忠により擁立された。 しかし、禅譲のためだけに即位させられたに過ぎず翌年には朱全忠により朝臣を皆殺しにされ(白馬の禍)、907年には朱全忠への禅譲を余儀なくされた。 禅譲後、李祝は後梁の済陰王に封じられたが、翌908年に後難を恐れた太祖朱晃(朱全忠)によって、曹州(山東省)で毒殺された。享年17。 ちなみに、前年の春2月の戊戌の日に廃太子である李裕を初めとして、李祤・李禊・李禋・李禕・李祕・李祺・李禛・李祥・李襜ら、哀帝の10人の兄弟らも、朱全忠に洛陽菀内にて偽りの宴会に招待されて、そのまま絞め殺されて、付近の九曲池に投げ込まれたという。=

回鶻位相

  後梁は、唐の弊害だった宦官と門閥貴族を一掃し、首都の移転、農民生活の安定につとめて下級士人に支えられる合理的な革新政権だった。 歴史的にも唐を滅ぼし700年続いた貴族制を終焉させ、しばらく実力を持った武人が横行する時代を招いた。 しかし、唐を滅ぼしたとき、晋王李克用ら唐末の混乱に乗じて地方で自立していた軍閥(節度使)が後梁の受禅を認めずに各地で自立したため、五代十国の分裂時代を招く。
後梁は人口が稠密で文化が進んだ地域を支配し、首都は中国経済の中心地だった。 しかし版図は元来の唐の4分の一にすぎず、建国後に李克用の子・李存勗の晋国(のちの後唐)に敗れ押され気味となり、呉との戦でも破られるのである。

また 朱全忠は、病気もあって性格が苛烈となり部下を罰することが多く後継者にも恵まれなかった。 そのため912年、病床より養子の博王朱友文を後嗣に立てようとしたため、実子の郢王朱友珪によって殺された。 帝位についた朱友珪は即位の経緯もあり人望を得ず、贅沢三昧の日々を送るなかで弟の均王朱友貞に殺されて帝位を奪われた。 こうした内訌で弱体化した後梁は晋国に侵食され、朱友貞も李存勗との戦いに敗れて殺された。 こうして後梁の皇帝はみな非業の最期を遂げ、後梁は3代16年の短命をもって滅んだ。 その後の五代の王朝も後梁を正当な王朝と認めず、後世の評判も良くなかった。 現在の中国も朱全忠を農民反乱軍の裏切者として高い評価を与えられていないが・・・・・。

荘宗

甘州ウイグル王国は建国以来、その隣国である沙州の西漢金山国と友好関係にあったが、906年(天祐3年;唐が朱全忠への禅譲を余儀なくされる前年)を境に両国は戦闘を交えるようになり、兵・民ともに犠牲者が増大していった。 この問題に対処するため、911年(開平5年)に沙州の住民1万人が甘州のウイグル可汗に嘆願書を送り、甘州ウイグル王国と西漢金山国を和平に導いた。 このときの講和条約として、甘州の権知可汗(ゴントカカン、仁美)は父となり、沙州の白衣天子(張承奉)は子となることを認めさせ、甘州ウイグル王国の領域を広げるとともに政権を安定させた。

後唐の同光2年(924年)4月、権知可汗の仁美は都督の李引釈迦、副使の鉄林、都監の楊福安ら66人を後唐に派遣して朝貢させ、玉と良馬9匹を献上した。 その前年(後梁:龍徳3年、後唐:同光元年) に後梁が滅亡したためである。 これにより後唐の初代皇帝・荘宗は司農卿の鄭績、将作少監の何延嗣に節を持たせて仁美を冊立し、英義可汗(エイギカカン)の称号を賜っている。 だが、その年の11月、仁美が卒去すると、弟の狄銀(テギン)が後を継いで権知可汗(ゴンチカカン・甘州王)となった。

狄銀はさっそく都督の安千想らを後唐へ遣わして入朝させた。 この月、都督の畢離遏が契丹可汗の耶律阿保機によって捕えられる。 2年後、926年(同光4年)に狄銀が死去すると、阿咄欲が立ったが、一方で仁裕も権知可汗の位に就いており、互いに後唐に遣使を送って朝貢をする。 明宗(五代後唐の第2代皇帝・李 嗣源)は928年(天成3年)3月、仁裕を冊立して順化可汗とした。 その後も順化可汗・仁裕は後唐に朝貢を続けた。

遼王朝

  ===== 続く =====

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