草原の王国・回鶻可汗国 = 17=

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル(维吾尔) は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

蒙古高原

天山ウイグル王国の衰退/契丹人の侵攻と西遼建国

1125年、遼が金によって滅ぼされると、その一部を率いた耶律大石がモンゴル高原において可汗を称した。 金の軍団に追われての逃亡中の出来事である。 遼の帝都をワズカ200有余の騎兵を率いての脱出であった。 金の阿骨打が追討軍を発し、大石は西方に逃避した。 蒙古高原で軍団を増やした耶律大石はアルタイ山脈を目指して移動、天山ウイグル王国と接触した。 天山ウイグル王国の話から外れるが・・・・耶律大石は天山ウイグル王国を呑み込み、カスピ海東岸に至る征服王朝(西遼/カラ・キタイ)を開闢するのである。

五代十国
即ち、保大2年(1122年)、女真人の金から攻撃を受けた遼帝国(契丹人・耶律氏の征服王朝)の皇帝・天祚帝は、この攻撃を防ぐことができず、中京から西の雲中の陰山に逃亡した。 この時、皇族の耶律大石は宰相の李処温とともに南京(燕京、現在の北京)において、第7代興宗の孫の耶律涅里(天祚帝の従父)を半ば無理やりに擁立して、天錫帝として北遼を建国した。 天錫帝は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任した。

大石は北遼の国力をもって宋、金2国を相手取って戦うことは困難であると考え、宋との和平を望んだが、宋は海上の盟に則り燕雲十六州攻撃を開始した。 宋は童貫の監督下で15万の大軍を動員したが、大石はこれを白溝河において大いに打ち破った。 その後、北遼は宋へ和平を持ち掛けたが、敗戦による権威失墜の回復を謀るべく戦果を欲していた童貫は拒絶した。 同じ頃、李処温の宋との内通が露見したため、李処温とその子の李奭は捕らえてこれを処刑された。

1123年、天錫帝が崩御したため、宋軍はこれに乗じて再び侵攻してきた。 しかし、大石は南京において市街戦にまで追い込まれたが、宋軍を再び撃破した。 童貫は自力での北遼攻撃は困難であると判断し、金に燕京攻撃を依頼した。 金の阿骨打はこれを受理し、北方より三路から燕京を攻撃した。 大石は居庸関で迎撃を試みたが失敗し、金軍に捕らえられた。 阿骨打は大石らを厚遇したが、大石は脱出して秦王、蕭德妃など奉じて保大3年(1123年)、天祚帝が仮寓する陰山・五原へと逃亡した。

中国史
しかし、天祚帝の下での身の安全に不審を抱いた大石は、保大4年(1124年)、金軍が迫ると200人ほどの契丹部の重装騎兵を引き連れて外蒙古、遼の北庭都護府である可敦城に逃れ、モンゴル高原一帯の18部の王を招集して自立した。 だが、1130年、金はこれに対して遼の降臣耶律余賭を派遣して攻撃をかけた。 大石はこれと交戦したが、激戦にならないうちに突然撤退し、さらに西へ移動してアルタイ山脈西部に入り、ビシュバリク=天山山脈東部の北麓に存在した都市。 9世紀から13世紀にかけて繁栄した天山ウイグル王国の首都=に向かった。

ビシュバリクを首都とする天山ウイグル王国のビルゲ可汗は、自ら国境に赴いて大石ら契丹王侯を迎え、大量の軍馬やラクダなどの贈物を贈るなどして、改めて大石ら契丹王家に臣従することを承認したと伝えられている。 耶律大石は1132年に葉迷立(=イミル、現在の新疆ウイグル自治区ドルビルジン県)で即位して天祐皇帝と名乗り、元号を延慶とした。 これが西遼であるが、イスラーム側の史書では西遼はカラ・キタイ(「黒い契丹」の意味)、そして大石以降の君主たちをグル・ハン(=葛爾汗)と呼び、大石を「偉大なる帝王」と呼んでいる。 大石とビルゲ可汗の王女との間にもうけた後嗣が耶律夷列(第5子、他の長兄姉は燕京で死亡)。

耶律大石は更に西への進出を図り、1137年にはホジェンド近郊で西カラ・ハン朝のマフムード2世の軍を破って臣属させる。 1141年に耶律大石は西カラハン朝の内訌に介入し、9月9日にカトワーンの戦いで西遼とセルジューク・西カラハン朝の連合軍が衝突し、西遼は勝利を収める。 このセルジューク朝に対する戦勝がシリアの十字軍を通してヨーロッパに誤って伝えられ、キリスト教国の君主プレスター・ジョンの伝説を生むことになったとも言われている。 さらに西遼はホラズム地方を劫略してホラズム・シャー朝のアトスズに対しても金30,000(もしくは3,000)ディーナールの歳幣を支払うよう講和させた。

アルタイ山脈
これにより西遼は西カラ・ハン朝の領土とセルジューク朝の盟下にあったホラズム・シャー朝の宗主権を手中にし、当時のパミール以東のトルキスタンと西方のマー・ワラー・アンナフル、すなわち現在の東西トルキスタンに跨がる地域の支配を確立した。 耶律大石の領土拡大の野心は薄く、支配領域はホラズム地方の一部とブハラを含む領域にとどまった。 そして、1143年、耶律大石は遼の故地の奪還を願って70,000の親征軍を金に対して出発させるが、行軍中に58歳で病死し、東征は中止された。

耶律大石の死後、その子の耶律夷列が跡を継いだ。 即位当時の耶律夷列は幼く、1150年まで耶律大石の后・塔不煙が摂政として夷列を後見した。 1163年に夷列が没し、その子が成人するまでの間、夷列の妹である普速完が摂政として幼帝を後見した。 1172年にホラズム・シャー朝で起きた内訌では、西遼は王位を要求するホラズム王子アラーウッディーン・テキシュを支援する。 後にテキシュが貢納の支払いを拒否すると、西遼はテキシュと王位を巡って対立していたジャラールッディーン・スルターン・シャーに援軍を送り、この地の権限を維持した。

しかし、1177年に不倫が原因で普速完が殺害され、耶律夷列の次子・耶律直魯古が即位した。 即位した耶律直魯古は政治を顧みずに狩猟と快楽に耽溺し、そのためにホラズム・シャー朝、ウイグル王国、 西カラ・ハン朝の離反を招いた。 さらにナイマン族の移動とホラズム・シャー朝が扇動したムスリム住民の反乱により、帝国の衰退が始まった。 西方のホラズム・シャー朝を中核とするイスラム勢力が西部地域を侵食しだした。

蒙古台頭

  ===== 続く =====

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