草原の王国・回鶻可汗国 = 18=

❢❢❢ 知略で異民族と共栄した草原の民 ”回鶻 / ウイグル“ ❢❢❢

= 回鶻 / /ウイグル(维吾尔) は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

キルギス

天山ウイグル王国の滅亡/大蒙古帝国の一翼を担う

1208年、耶律直魯古(チルク)はチンギス・ハーンとの戦いに敗れたナイマンの長クチュルクを皇女の婿君として迎え入れる。 クチュルクの父タヤン・カン(タイ・ブカ)が1204年にモンゴル部のチンギス・カンに敗れて戦死し、ナイマン部が壊滅した折、彼は、アルタイ山脈方面にいた叔父ブイルクの下に逃れた。
だが、1208年に再び敗れて、アルタイ山脈の西の中央アジアを支配する西遼に亡命していたのである。 西遼ではモンゴル帝国の拡大を警戒する末主・チルクによって歓迎され、その女婿とされるほどの優遇を受けていた。 しかし、クチュルクはナイマンの残部を集めて勢力を蓄えると、西遼の簒奪を企て、1211年に岳父のチルク王を幽閉し、自ら帝位を簒奪し帝位に就いた。

即位後、西遼以前に中央アジアを支配していたカラ・ハン朝の残部が西遼の宗主権下で存続していたタリム盆地南部のホータン、カシュガルを次々に征服し、中央アジアに勢力を広げた。 また、契丹人貴族の支持を得るために、妻の影響も受けてナイマンの旧来の信仰であるネストリウス派キリスト教から仏教に改宗した。 しかし熱心な仏教徒となってイスラム教を弾圧したため、領内の住民の大多数を占めるムスリム化したウイグル族のクチュルクに対する反感が強まった。 ウイグル王国の民は西遼から派遣された徴税人の搾取に反発し、徴税人を殺害して故地の蒙古高原で勢力を蓄えたモンゴル帝国に帰順を申し込んだ。

このため、1218年にモンゴル帝国の将軍ジェベが率いる部隊が到来すると、領内のムスリムは雪崩を打ってモンゴルに従い、クチュルクの勢力を排斥していく。 クチュルクは離散したナイマンの遊牧民を糾合し、ナイマンと同じくモンゴルに敗れたメルキトの部衆もクチュルクの軍に加わってジュペ将軍率いる蒙古軍に挑むが、蒙古軍の勢いとクチュルクの無能さに戦いの不利を知った西遼軍は瓦解する。 再び 逃亡したクチュルクは南のパミール高原に向かって敗走したが、バダフシャーンでモンゴルの追討部隊に捕捉され、殺害された。

西行路

前記のように、天山ウイグル王国の領地は12世紀に入り、東から耶律大石がこの地へを征服して西遼を建て、ウイグル族はこれに服属するようになるが、13世紀にモンゴルでチンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル国王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンがこれに帰順した。 『元朝秘史』によるとチンギスは彼の帰順を大変に歓迎して息女の一人アル・アルトンを娶らせ駙馬(キュレゲン/婚姻関係で結びつく関係)とした。 さらに天山ウイグル王国のバルチュク国王はなどではジョチ(ジンギス・ハーンの長男)などチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された。

以後、モンゴル帝国ではウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る事となる。 モンゴル帝国およびジンギシの末子・トルイの四男・クビライが開いた大元朝ではウイグル出身官僚がモンゴル宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになった。 もちろん、トルイの五男・フレグが1260年秋に建国したイルハン朝の経済官僚として活躍して行く。 因みに モンゴル文字はウイグル文字を中華風に縦書きにしたものである。 ジンギス・ハーンが文字の重要性にきづき、作成させたと言う。 天山ウイグルの民は、モンゴル帝国以後はイスラーム化していった。

ウイグル菜

天山ウイグル王国が、どのような経過でマニ教から仏教へ移行したのかはまだよく分かっていないが、10世紀後半までのアラビア語・ペルシア語資料ではトグズグズ、つまりウイグル勢力の宗教はマニ教であったことが記されている。 敦煌やトルファン発掘のウイグル語文書などからは10世紀後半にマニ教寺院の破壊とその再建、ウイグル王族による仏教寺院の建立の記事が見られ、この頃にはマニ教の勢力が衰退に向かっていたことが分かる。 11世紀後半の文献によれば、この頃には天山ウイグル王国は完全に仏教国になっていたようである。

ソグド人の伝えたマニ教がウイグル王侯の西遷によってトルファン盆地一帯にもたらされたが、元来この地域は漢人やトカラ人によって仏教が隆盛していた。 彼ら仏教徒は支配層のウイグル語を修得し、ウイグル語による仏教典を大量に制作してウイグル人への布教に努めていたようである。 マニ教側も千仏洞や文書類から仏教側の攻勢に対抗すべく仏教徒側をとりこむ教論を展開するなどしていたようだが、ウイグル王侯の仏教への改宗などによって勢力は大きく衰微し、ついに王国内部から駆逐されたと見られている。

モンゴル帝国時代前後の千仏洞の壁画にはソグド系と思われる寄進者が多数描かれており、ソグド系の人々の多くも仏教に改宗していたものと思われる。 この頃から仏教勢力よる新来のマニ教寺院などの破壊や仏教寺院への改修が勧められ、ベゼクリク千仏洞などの現在の姿に至っている。 これ以降モンゴル帝国時代を経てチャガタイ・ウルスのもとで15世紀頃からイスラーム化が進展するまで、ウイグル王国は仏教を信奉する事になる。

鉄門

そして、19-20世紀に各国の探検隊が敦煌やトゥルファンから持ち帰った出土文書の中には、ウイグル文字や古ウイグル語で書かれた仏典も多数含まれている。 これらの研究より、天山ウイグル王国で信仰された仏教は、マニ教の強い影響を受けつつ、トカラ仏教・敦煌仏教・ソグド仏教など東西の諸要素を混在させた独特のものであったことが分かってきている。 天山ウイグル王国はマニ教文献の宝庫であり、マニ教国教時代にはソグド文字、マニ教文字、ウイグル文字、漢文などで書かれた一級の資料が多数発掘されている。 これらの資料は宗教学としてマニ教そのものの究明だけでなく中期イラン語諸語の重要な資料として言語学的にも貴重であると言われている。

尚、この地に滞在した小生の紀行記録は
https://thubokou.wordpress.com/2012/12/31/ ; 汗血馬の故郷へ
https://thubokou.wordpress.com/2013/01/11/ ; 天山南路歴史紀行
https://thubokou.wordpress.com/2013/01/19/ ; 草原のシルクロード紀行
https://thubokou.wordpress.com/2013/01/27/ ; 激動の草原地帯
https://thubokou.wordpress.com/2013/02/07/ ; 紀行エピローグ・写真集

等々を一読賜れば、幸甚。

旅程

 ===== 続く =====

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