牧民タタールが夢見た大洋 Ⅰ_02

❢❢❢ 草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第一章 ❢❢❢

○◎ =故地からの南下、西走 略奪国家の形成と崩壊= ◎○

韃靼人ー1

◇◆  序文 =2/2=  ◆◇

狄(テキ)、中国史料にあるいはと記される民族が「テュルク」に関する最古の記録であると考えられている。 は周代に中国の北方(河北地方: 山西省、河北省)に割拠する、中原的都市文化を共有しない牧民を呼んだ呼称である。 北方の民族は度々中原を侵略したことから、北方にいた異民族は総じて狄と呼ばれるようになり、北狄は蔑称としての意味合いが強くなった。 また、翟人は紀元前2000年頃にはオルドス地方一帯で繁栄していたようで、考古物から時代ごとの人口の増加と経済的発展が確認される。 その後、水と草を追い求めながら東方や南方へ向かって居住地域を拡大、前期には翟人の遊牧地域は華北一帯(主に山西・河北・陝西)で存在していた事が確認されている。

春秋時代

中国の北方に割拠していた狄は、 の時代に、多くが戦争によって中原から北方へと追われていた。 しかし、狄は興安嶺の西部から南部の広大な蒙古高原東部域において勢力拡大して行ったようで、商後期・周の時代へ入ると彼らの遊牧生活や習俗が中原の文献にも登場し始める。 また、長狄赤狄白狄といった集団が史書に記されるように成った。 勢力を拡大した狄の有力な首長家系はの公室と通婚するなど中原諸侯を構成した諸国とも密接な関わりを持ち、居住地も中原北部に点在し北方諸侯に属する都市国家群の点状に分散する領地の間に広く居住して行く。 狄には北に位置する赤狄と南に位置する白狄が居たが、周が衰えると白狄は春秋時代といった国々に侵入して略奪を行った。 だが、翟人は関中などの西北地域から追われて、多くが東や北へ移動したとされる。

漢中に侵攻した白狄は、中国諸国と同盟・離反を繰り返しながら存続し、周王朝が衰え戦国時代になると、河北や山西などの長城沿いに居た白狄が大挙して南下を始め、中原中山国と呼ばれる強大な狄人国家を建て、後に諸侯国と成る。 中山国は紀元前296年にの攻撃によって滅亡するが、ある者は中国人と同化し、ある者は北狄、戎狄と総称される異民族として中国の周辺で遊牧を続けた。 後世になって北狄、戎狄の語は北方遊牧民族の代名詞となり、四夷の一つとして数えられる。

中山国

丁零或いは丁令と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている。 丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。 やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。 五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して翟魏を建てた。

モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人=拓跋氏政権=から高車と呼ばれるようになる。 これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる。 初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部代国北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。 487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。 阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。

突厥(トッケツ)・鉄勒(テツロク)の台頭。 中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった突厥によって滅ぼされる(555年)。 突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。 そのため東ローマ帝国の史料にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記されることとなる。 また、突厥は自らの言語=テュルク語=を自らの文字(突厥文字)で記しているので、古代テュルク語がいかなるものであったかを知ることができる。 しかし、突厥は582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡してしまう。 西突厥の一部は東ヨーロッパに侵攻して行った。

春秋戦国

一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は鉄勒と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。 鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。 やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回紇ウイグル)が台頭し、葛邏禄カルルク)、拔悉蜜(バスミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼし、勢力を確立する。

巨大な遊牧民の大帝国であり、中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。 モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。 その後のウイグルは甘州ウイグル王国天山ウイグル王国を建てて西域における定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。

中央アジアではカルルク、テュルギシュ、キメク、オグスといった諸族が割拠していたが、10世紀にサーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。 カスピ海以西ではブルガールハザールペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。 11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つのである。

6C.前半

  ===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/03/05/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/03/07/

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
*当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp/

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中