牧民タタールが夢見た大洋 Ⅰ_04

❢❢❢ 草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第一章 ❢❢❢

○◎ =故地からの南下、西走 略奪国家の形成と崩壊= ◎○

源中国人

◇◆ 匈奴帝国の興亡 その2/4 ◆◇

冒頓が北の渾庾、屈射、丁零鬲昆、薪犁といった諸族を服属させた頃、中国では前漢劉邦が内戦を終結させて皇帝の座に就いていた。 紀元前200年、匈奴は40万の軍勢を率いてを攻め、その首都・馬邑で馬邑城の韓王信を攻撃し、代王・韓王信を寝返らせた。 匈奴はそのまま太原に侵入し、晋陽に迫った。 そこへ前漢皇帝・高祖(劉邦)率いる歩兵32万を含む親征軍が到着するが、大雪と寒波に見舞われ、多くの兵が凍傷にかかった。 冒頓単于は漢軍をさらに北へ誘い込むべく偽装撤退を行う。 弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返した。 追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。 高祖皇帝は白登山に7日間、匈奴軍の幾重にも重る包囲網で囲まれる。

匈奴軍は北方の軍団は黒馬、南方の軍団は赤馬、西方の軍団は白馬、東方の軍団は白面の黒馬に乗って漢軍を包囲していた。 この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平の献策により冒頓の閼氏(エンシ:歴代単于の母)を動かして攻撃を思い止まらせその間に逃走した。 =白登山の戦い= その後、冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。 これにより、匈奴は前漢から毎年贈られる財物により、経済上の安定を得、さらに韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。

これには、成立したての漢王朝は対抗する力を持たず、高祖皇帝崩御の際、冒頓単于から侮辱的な親書を送られる。 その侮辱的な親書とは、「一人寝るのは寂しくて身が持たぬであろう、姥桜とて慰めてやろう。 我が閨に来るもよかろう」と差し向けた冒頓単于の文面である。 一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉も周囲の諌めにより、婉曲にそれを断る内容の手紙と財物を贈らざるを得なかったという。

AC.2C.

匈奴で軍臣単于(在位:前161年-前127年)が即位し、漢で景帝(在位:全156年-前141年)が即位。 互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であったが、景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。 しかし、武帝(在位:全161年-全87年)が即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青に楼煩と白羊王を撃退させ、河南の地を奪取することに成功した。

元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。 これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまった。 さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。 ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年前105年)の代においては漢から人質が要求されるようになった。

太初3年(前102年)、漢の李広利は2度目の大宛遠征で大宛を降した。 これにより、漢の西域への支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになる。 その後も匈奴と漢は戦闘を交え、匈奴は漢の李陵と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第に開いていった。

匈奴と漢

その後、前漢王朝が安定し国が富むに至り、武帝はこの屈辱的な状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始する。しばらく一進一退が続いたものの、前漢の衛青霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴はより奥地へと追い払われ、その約60年続いた隆盛も終わりを告げた。

漢に対抗できなくなった匈奴は何度か漢に和親を求め、握衍朐鞮単于(オクエンクテイ・ゼンウ、在位:前60年前58年)の代にもその弟を漢に入朝させた。 しかし一方で、握衍朐鞮単于の暴虐殺伐のせいで匈奴内で内紛が起き、先代の虚閭権渠単于(コエオゴンゴ・ゼンウ)の子である呼韓邪単于(ゴカンヤ・ゼンウ、在位:前58年前31年)が立てられ、握衍朐鞮単于は自殺に追い込まれた。 これ以降、匈奴国内が分裂し、一時期は5人の単于が並立するまでとなり、匈奴の内乱時代を迎える。

やがてこれらは呼韓邪単于によって集束されるが、今度は呼韓邪単于の兄である郅支単于(シチシ・ゼンウ)が現れ、兄弟が東西に分かれて対立することとなる。 呼韓邪単于は内部を治めるため漢に入朝し、称臣して漢と好を結んだ。 漢はこれに大いに喜び、後に王昭君を単于に嫁がせた。 漢と手を組んだ呼韓邪単于を恐れた郅支単于は康居大宛の西北に在り、シル川の中・下流からシベリア南部を領していたと思われる遊牧国家=のもとに身を寄せたが、漢の陳湯甘延寿によって攻め滅ぼされた。 これらの経緯の内に、ふたたび匈奴を統一した呼韓邪単于は漢との関係を崩さず、その子たちもそれを守り、しばらく漢と匈奴の間に平和がもたらされた。

匈奴歴代-2

===== 続く =====

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