牧民タタールが夢見た大洋 Ⅰ_05

❢❢❢ 草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第一章 ❢❢❢

○◎ =故地からの南下、西走 略奪国家の形成と崩壊= ◎○ 

王昭君

◇◆ 匈奴帝国の興亡 その3/4 ◆◇

壺衍鞮単于(ゴエンタイ・ゼンウ 在位:前85年前68年)の代になり、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓(ウガン)族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に敗れた時の報復をした。 壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。 漢の大将軍霍光はこの情報を得ると、中郎将范明友度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせて遼東郡から出陣させた。范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけたが、范明友の軍が到着したときには、匈奴は引き揚げていた。そこで、范明友は烏桓族が力を失っているのに乗じて攻撃をかけ、6千余りの首級を上げ、3人の王の首をとって帰還した。

壺衍鞮単于はこれを恐れて漢への出兵を控え、西の烏孫へ攻撃を掛け車師(シャシ 車延、悪師)の地を取った。しかし、烏孫は漢との同盟国であったため、救援要請を受けた漢軍は五将軍を派遣して匈奴に攻撃を仕掛けた。匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなる。その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃した。しかし、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死し、これに乗じた傘下部族の北の丁令(テイレイ)、東の烏桓(ウガン)、西の烏孫(ウソン)から攻撃され、多くの兵と家畜を失った。 これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大きく弱体化した。

漢に対抗できなくなった匈奴は何度か漢に和親を求め、握衍朐鞮単于(アクエンクテイ・ゼンウ 在位:前60年前58年)の代にもその弟を漢に入朝させた。 しかし一方で、握衍朐鞮単于の暴虐殺伐が人心離反を呼び、匈奴内で内紛が起きる。 先代の虚閭権渠単于(ゴウゴンゴ・ゼンウ)の子である呼韓邪単于(ゴカンヤ・ゼンウ 在位:前58年前31年)が立てられ、握衍朐鞮単于は自殺に追い込まれた。 これ以降、匈奴国内が分裂し、一時期は5人の単于が並立するまでとなり、匈奴の内乱時代を迎える。 やがてこれらは呼韓邪単于によって集束されるが、今度は呼韓邪単于の兄である郅支単于(シチシ・ゼンウ)が現れ、兄弟が東西に分かれて対立することとなる。 呼韓邪単于は内部を治めるため漢に入朝し、称臣して漢と好を結んだ。 漢はこれに大いに喜び、後に王昭君を単于に嫁がせた。 漢と手を組んだ呼韓邪単于を恐れた郅支単于は康居(コウコ)のもとに身を寄せたが、漢の陳湯甘延寿によって攻め滅ぼされた。

東夷と烏桓

こうしてふたたび匈奴を統一した呼韓邪単于は漢との関係を崩さず、その子たちもそれを守り、しばらく漢と匈奴の間に平和がもたらされた。 だがしかし、 五十年後、烏珠留若鞮単于(ウシュルニャクタイ・ゼンウ 在位:前8年13年)の時代、漢では新都侯の王莽が政権を掌握し、事実上の支配者となっていた。 この頃から漢の匈奴に対する制限が厳しくなり、他国からの人質、投降者、亡命者などの受け容れを禁止する4カ条を突き付けられた。 呼韓邪単于以来、漢の保護下に入っていた匈奴はそれを認めるしかなかった。 そして、始建国元年(9年)、王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼしてを建国した。

王莽は五威将の王駿らを匈奴へ派遣し、単于が持っている玉璽を玉章と取り換えさせた。 その後、烏珠留若鞮単于はもとの玉璽がほしいと言ったが、すでに砕かれており、戻ってくることはなかった。 王莽は匈奴で15人の単于を分立させようと考え、呼韓邪単于の諸子を招き寄せた。 やって来たのは右犁汗王のと、その子のの3人で、使者はとりあえず咸を拝して孝単于とし、助を拝して順単于とした。 この事を聞いた烏珠留若鞮単于はついに激怒し、左骨都侯で右伊秩訾王の呼盧訾、左賢王の楽らに兵を率いさせ、雲中に侵入して大いに吏民を殺させた。 ここにおいて、呼韓邪単于以来続いた中国との和平は決裂した。

王莽

この後、匈奴はしばしば新の辺境に侵入し、殺略を行うようになった。 王莽の蛮族視政策は西域にも及んだため、西域諸国は中国との関係を絶って、匈奴に従属する道を選んだ。

始建国5年(13年)、烏珠留若鞮単于は即位21年で死去し、王莽によって立てられた孝単于の咸が後を継いで烏累若鞮単于(ウシュルンニャクタイ・ゼンウ 在位:13年18年)となった。 烏累若鞮単于は初め、新朝と和親を結ぼうとしたが、長安にいるはずの子の登が王莽によって殺されていたことを知り、激怒して侵入略奪を絶えず行うようになった。 そこで王莽は王歙に命じて登および諸貴人従者の喪を奉じて塞下に至らせると、匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させた。 こうして、烏累若鞮単于は王莽の金幣を貪る一方、寇盗も従来通り行った。

地皇4年(23年)9月、更始軍が長安を攻め、王莽を殺害、新朝が滅亡した。 更始将軍の劉玄は皇帝に即位し、漢を復興する(更始朝)。 匈奴では呼都而尸道皋若鞮単于(コツニシドウコウニャクタイ・ゼンウ 在位:18年46年)が即位していたが、新末において匈奴がたびたび辺境を荒らしていたために更始朝が新朝を倒すことができたと言い始め、更始朝に対して傲慢な態度をとった。 しかし、そうしているうちに赤眉軍が長安を攻撃して劉玄を殺害、その赤眉軍も光武帝によって倒されて後漢が成立した。 呼都而尸道皋若鞮単于は後漢に対しても傲慢な態度を取り、遂には自分を冒頓単于になぞらえるようになった。

レビラヨ婚

===== 続く =====

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