牧民タタールが夢見た大洋 Ⅱ_01

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第二章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○ 

烏丸

 ◇◆ 鳥丸の台頭と匈奴・鮮卑そして漢中 ◆◇

鮮卑(センピ)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。 五胡十六国時代南北朝時代には南下して中国北魏などの王朝を建てた。 もともと、鮮卑は匈奴の支配下にあったものが、独立して次第に匈奴を漠北に追いやって勢力を築き、部族の中から檀石槐がすべての部族をまとめて統治していた。 しかし彼の死後、部族間で相争う中で鮮卑の一部族であった拓跋部が台頭し、その中心氏族である拓跋氏が華北を統一し、北魏を建国する。

前章で記したように、代の初め、匈奴冒頓単于東胡を滅ぼした際、その生き残りが烏丸山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏丸(ウガン)と鮮卑になった。 烏桓/鳥丸は、初めは勢力が弱く、匈奴に臣下として仕え、年ごとに牛や馬や羊を貢いでいた。 もし定めの時期を過ぎてもその数が揃わないときには、彼らの妻子が匈奴に連れ去られるのが常であった。 匈奴の壺衍鞮単于(コエンテイ・ゼンウ、前節参照)の時代になると、烏丸の力がだんだん強くなり、匈奴の単于の墓を暴いて、冒頓単于に敗れた時の恥に報復した。 しかし、壺衍鞮単于は激怒し、2万の騎兵をやって烏丸に攻撃をかけた。 他方、漢の大将軍・霍光カクコウ)は、この情報を得ると、度遼将軍范明友を送り、3万の騎兵を率いて、匈奴の後を追って攻撃をかけた。

霍 光

范明友の軍が到着したときには、匈奴は既に引き揚げた後だった。 烏丸は匈奴の兵から手痛い目を受けたばかりで、范明友は彼らが力を失っているのに乗じて、軍を進めて烏丸に攻撃をかけ、6000余りの首級を上げ、3人の王の首を取って帰還した。 その後も、烏丸は幾度か長城地帯に侵攻してきたが、范明友はそのたびごとに兵を出して打ち破った。 時が移り、王莽の末年になると、烏丸は匈奴とともに南下し、侵略を行うように成る。 光武帝が天下を平定し、後漢王朝を開くと、伏波将軍の馬援を送り、3000の騎兵を率い、五原関から長城の外に出て、征伐を行わせた。

しかし何の成果も上げず、馬1000余匹を死なせただけであった。 この事件を期に、烏丸は旧来以上の勢力を盛んにし、西方の匈奴に略奪や攻撃を仕掛けた。 他方、匈奴は内紛や打ち続く旱魃や悪病で千里の彼方へ居住地を移し、漠南の地(内モンゴル)は空になった。 建武25年(49年)、烏丸の大人郝旦(カクタン)ら9000余人が部下を引き連れて漢の朝廷にやってきた。 その主だった指揮者が王や侯に封ぜられ、その数は80人以上にものぼった。 彼らを長城の内側に居住させ、同じ烏丸族の者たちを内地に移るよう招き寄せた。 後漢王府は彼らに衣食を給し、護烏丸校尉の官を置いてその統治と保護にあたらせた。 こうした施策の結果、烏丸は漢のために塞外の偵察と警備の任にあたり、匈奴や鮮卑に攻撃を加えるようになった。

だが、永平年間になって、漁陽烏丸の大人の欽志賁(キンシホン)が部族を糾合して漢の命令を聞かなくなり、鮮卑も再び漢へ攻撃を始めたが、遼東太守祭肜(サイユウ)の計略で欽志賁が暗殺される。 しかし、安帝の時代になると、西方烏丸の率衆王無何(ムカ)たちは、また鮮卑や匈奴と連合して漢中で略奪を働いた。 後漢は国境地帯の2万の兵士を動員して攻撃をかけさせた。 その結果、匈奴は降服し、鮮卑と烏丸はそれぞれ長城の外へ引き揚げていった。

光武帝.jpg

漢の末年、遼西烏丸の大人丘力居(キョウリキキョ)、上谷烏丸の大人難楼(ナンロウ)、遼東属国烏丸の大人蘇僕延(ソボクエン)、加えて右北平烏丸の大人烏延(ウエン)らは勝手に王を号していた。 彼らはそれぞれに智謀もあり勇敢な者たちであった。 後漢王府の中山太守・張純は、逃亡して丘力居の配下に入ると、自ら弥天安定王と号し、三郡の烏丸の総指揮者となり、四州を攻略し、役人や民衆を殺し略奪を行なった。 霊帝の末年、劉虞が幽州のに任ぜられると、異民族の間に恩賞を約束し張純の首を取らせる事件が起きていた。 その後、丘力居が死ぬと、従子の蹋頓(トウトン)に武略があったので、蹋頓が代わって立って、三王の配下を統括した。

他方、後漢末期の政権闘争で袁紹公孫瓚と幾度も戦いながら、勝負がつかずにいる時、蹋頓は使者を袁紹のもとに送って和親を求め、袁紹を助けて公孫瓚を攻撃し、これを打ち破った。 袁紹は勝手に朝廷の命令を偽造して蹋頓,難楼,蘇僕延,烏延に印綬を与えて、それぞれ単于の称号を与えた。

公孫 瓚.jpg

その後に、鳥丸内で勢力争いが起きる。 袁紹はこれを利用し、閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計った。 のちに袁紹の三男である袁尚曹操に敗れて蹋頓のもとに逃げ込むと、蹋頓の力を頼んで冀州奪回を目論んだ。 ちょうどその頃、曹操は河北を平定し、閻柔は鮮卑と烏丸を引き連れて曹操のもとに帰順した。 そこで曹操は引き続いて閻柔を護烏丸校尉に任じ、漢の使節を与えて、以前どおり上谷郡寧城で職務にあたらせた。 しかし、建安11年(206年)、曹操は自ら柳城の蹋頓を撃った。 秘密裏に軍勢を動かし間道を通ったが、柳城の手前100里余りの所で敵軍に発見された。 袁尚は蹋頓とともに兵を率いて凡城に曹操を迎え撃ち、その兵馬ははなはだ盛んであった。

曹操は小高い場所に登って、敵の陣営を見渡し、兵を出すのを抑えていた。 敵に少し動きのあるのを見届けてから兵を動かし、敵兵を打ち破った。 その戦闘の間に蹋頓の首を取り、死者は野を埋めた。 =白狼山の戦い=。  鳥丸の速附丸,楼班,烏延らは遼東郡に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らすべてを斬って、その首を駅馬で曹操のもとにもたらした。 それ以外の散り散りに残った者たちもみな降伏した。 曹操は、これらの者たちを烏丸1万余りの落と一緒にし、部族を挙げて漢の内地に移住させた。 そして、鳥丸の王侯や大人の指揮下にある異民族の兵士たちを統合し、曹操の軍に加わらせた。 こうして三郡の烏丸は、曹操が起こした魏王朝の騎兵としての名が天下に轟かせるが、北方騎馬民族としての鳥丸は漢中に埋没して行った。

曹 操.jpg

 ===== 続く =====

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