牧民タタールが夢見た大洋 Ⅱ_02

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第二章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○ 

匈奴帝国

◇◆ 鮮卑の台頭と鮮卑の台頭と匈奴・鳥丸の凋落 ◆◇

時に、蒲奴(ブヌ 在位:46年 – ?年)が匈奴の単于に即位すると、匈奴国内で旱(ひでり)と蝗(いなご)の被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡するという大飢饉に見舞わされた。 単于蒲奴は後漢がこの疲弊に乗じて攻めてくることを恐れ、使者を漁陽まで派遣して、敵対する烏丸に和親を求めた。

他方では、左薁鞬日逐王(サイクケンジツチクオウ)の比(ヒ)は南辺八部の部族長たちに推戴され、呼韓邪単于(前節参照)と称して南匈奴を建国し、匈奴から独立するとともに後漢を味方につけた=匈奴の南北分裂=。 南匈奴は北匈奴の単于庭(本拠地)を攻撃し、単于蒲奴を敗走させた。 これにより単于蒲奴の権威は失墜し、その配下の多くが南匈奴へ流れて行った。 この南北分裂に伴う匈奴勢力の減退に、匈奴に追随していた鮮卑が勢力を盛り返す。

建武30年(54年)の事、鮮卑の大人(タイジン:部族長)の於仇賁(オキュウホン)は部族民を引き連れて都洛陽に上って朝貢をし、光武帝から王に封じられる。 その後 永平年間に、祭肜(サイユウ)が遼東太守となると、彼は鮮卑に誘いをかけ賂を送って、漢の命令に従わない烏丸の欽志賁(キンシホン)らの首を取らせた。 烏丸は牙を抜かれて四散した。 その結果、漢のために塞外の偵察と警備の任にあたる漢の傭兵部族となり、匈奴や鮮卑に攻撃を加えるようになった。

鮮卑帝国

永元6年(94年)、鮮卑大都護の校尉蘇拔廆(ソバツカイ)は、部族民を率いて護烏丸校尉任尚(ジンショウ)に従い、南匈奴の反抗者たちを討伐した。 その功により、朝廷は蘇拔廆を率衆王に封じた。 漢は烏丸と鮮卑を競わせる政策を用いて、北方の匈奴勢力を牽制し、烏丸と鮮卑の勢力拡大を削いでいった。 しかし、殤帝延平元年(106年)に鮮卑は東への移動を始め、安帝の時代、鮮卑の大人の燕茘陽(えんれいよう)が入朝した。 朝廷は彼に鮮卑王の印綬を授けた。 これ以後、鮮卑は、あるときは後漢に反抗し、あるときは降伏し、あるときは匈奴や烏丸と争った。

安帝(第6代皇帝)の末年(125年)、鮮卑は、国境地帯から歩兵と騎兵2万余りを徴用して、要害の地に駐屯配備させた。 そして、鮮卑の8000-9000の騎馬兵は代郡と馬城の砦を破って漢中に侵入し、郡県の主立った役人たちを殺害した。 後漢の朝廷は将軍・鄧遵(トウジュン)を派遣して、長城以北にまで追撃させ、これを打ち破った。 鮮卑の大人烏倫(ウリン)、其至鞬(キシケン)ら7000余人が鄧遵のもとに降伏を申し入れてきた。 そこで朝廷は烏倫を王に封じ、其至鞬には侯の位を与えた。 鄧遵が去ったあと、其至鞬はまたもや叛き、馬城に包囲した。 しかし、援軍到来に包囲を崩して長城以北に撤退した其至鞬はこれ以後ますますその勢力を盛んにし、長城の内部に三度侵入して、五原郡の曼柏(マンハク)に向かい、匈奴の南単于に攻撃をかけて、南匈奴王・比を殺害。 これ以降、鮮卑・南匈奴・後漢三者の三つ巴戦が始まる。

桓帝(後漢11代皇帝)の時代、投鹿侯(トウロクコウ)の子、檀石槐(ダンジャクエ)が大人の位に就くと、鮮卑族は高柳の北、300余里の弾汗山(ダンオサン)、啜仇水(セッキュウスイ)のほとりにその本拠を置いた。 東や西の部族の大人たちはみな彼のもとに帰服してきた。 その兵馬は勢い盛んで、南は漢の国境地帯で略奪を働き、北では丁令(テイレイ)の南下を阻み、東では夫余(フヨ)を撃退させ、西では烏孫(ウソン)に攻撃をかけた。 かつての匈奴の版図をまるまる我が物とし、東西は1万2000余里、南北は7000余里にわたって、広大な地域をすっぽり手中に収めた。

ドモノ移動

の朝廷はこれを患え、使匈奴中郎将張奐(チョウカン)を送って討伐させたが、勝つことができなかった。 そこで今度は使者を送り印綬を授けて、檀石槐を王の位に封じ、和親を通じようとした。 檀石槐は拒絶して受け取らず、侵入略奪はますます激しくなった。 着実に勢力を拡大した檀石槐は、自らの領有する土地を東・中・西の3部に分け、右北平から西方の東部には20余のがあり、東部域とした。 右北平から西方の上谷に至るまでを中部とし、そこには10余の邑があり、上谷から西方の敦煌まで、西方の烏孫と接する所までを西部とした。

霊帝(後漢12代皇帝)の時代になると、彼らは幽州幷州の2州で盛んに略奪を行い、国境地帯の諸郡は、鮮卑から酷い損害を受けない年はなかった。 後漢の朝廷は、熹平6年(177年)に護烏丸校尉夏育(カイク)、破鮮卑中郎将の田晏(デアン)、使匈奴中郎将の臧旻(ソンピン)を派遣し、南匈奴の屠特若尸逐就単于(トトクジャクシチクシュウゼンウ)の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、3隊に分かれて並行して進み、2000余里を突っ切って鮮卑族制圧の遠征軍を派遣した。 檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃った。 臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかったと言う。 この頃、鮮卑の人口が増え農耕牧畜・狩猟だけでは、食糧を十分に供給することができなくなり、川魚を獲って食料としていたと言う。 鮮卑族は豊潤な漢中に侵攻せねばならない・・・・・。

後漢帝国

===== 続く =====

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