牧民タタールが夢見た大洋 Ⅱ_03

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第二章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○

梁山白

◇◆ 檀石槐、鮮卑帝国開闢前に他界 ◆◇

檀石槐(ダンジュクエ、生没年不詳)は、後漢末期の鮮卑族の大人(タイジン:部族長)。 投鹿侯(トカコウ)の子。和連(ワレン)の父。 魁頭(カイズ),扶羅韓(ブラガン),歩度根(ブドコン),騫曼(ケンマン)らの祖父、泄帰泥(セチギナイ)の曾祖父。桓帝後漢の第11代皇帝、在位:146年167年)の時代、父の投鹿侯が南匈奴に三年間従軍している間に、彼の妻は男子を産んだ。 従軍から帰ってきた投鹿侯は自分が留守の間に妻が別の男と交わって産んだ子ではないかと疑い、その子を殺そうとした。 そこで妻が「ある時の日中、外を歩いていると雷鳴が聞こえ、天を見上げると、雹が私の口に入ったので、飲み込んだところ、身重になり、10か月で子供が産まれました。 この子はきっと非凡な力をもつにちがいありません」と助命をしたが、彼はそれを信じず、妻と離別した。

妻はその男子を実家の部族で養育することにした。 この男子は“檀石槐”と名付けられ、幼少の時からその勇敢さと統率力を発揮したという。 檀石槐が14~15歳くらいになった頃、別部族の大人である卜賁邑(ボクトニュウ)が檀石槐の生母の部族を夜襲し、その牛や羊を略奪した。 母の部族が襲撃されたと聞いた檀石槐は激怒し、単騎で卜賁邑を追撃し、母の部族の牛や羊を取り返した。 それ以来、檀石槐の名は諸部族に轟いたという。

檀石槐の出す命令や禁令、裁きが公平だったため、やがて彼は大人に推戴され、大人庭(本拠)を高柳の北300余里の弾汗山,歠仇(啜仇)水のほとりに建て、東西の部族大人たちが彼のもとに帰順してきた。 その兵馬は強盛で、南は漢の国境地帯で略奪をはたらき、北は丁零の南下を阻み、東は夫余を撃退し、西は烏孫に攻撃をかけた。 その領域はかつての匈奴の版図に匹敵し、東西14000余里、南北7000余里にわたって山,川水沢,鹽池などを手中に収め鮮卑帝国の観を呈した。 そして、永寿2年(156年)秋、檀石槐は3~4千騎を率いて長城の南・雲中を寇掠した。

檀石槐

延熹元年(158年)、鮮卑は漢の北辺を寇掠し、延熹2年(159年)にふたたび鴈門に侵入し、数百人を殺し、大抄掠して去った。 そして、延熹6年(163年)夏には、千余騎で遼東属国を寇掠した。 また、延熹9年(166年)夏、檀石槐の鮮卑は、南匈奴,烏桓と連合し、数万騎を分けて縁辺九郡に侵入させ、吏人を殺掠している。 これに対し、後漢朝廷は張奐を派遣してこれを撃ち、鮮卑は塞を出て去った。 しかし、朝廷はこれらを制止できないことを患い、遣使に印綬を持たせ、檀石槐を王に封じ、鮮卑と和親をはかろうとした。 しかし檀石槐はこれを拒否し、侵入略奪はますます激しく行っていく。

檀石槐は自らの領有する土地を東・中・西の三部に分けて統治して行く様子は前節で述べた。 以下 一部は重複するが、檀石槐の支配地域が急速に拡大して行く中で、問題も拡大して行った。 霊帝(第12代皇帝、在位:167年189年)の時代になると、鮮卑は幽州幷州涼州の3州で盛んに略奪をおこない、国境地帯の諸郡は、鮮卑からひどい損害を受けない年はなかった。 熹平3年(174年)冬、鮮卑は北地郡に侵入し、後漢朝廷は遊撃して勝利を収めている。 しかし、翌年の熹平5年(176年)、鮮卑は幽州を寇掠した。

続く熹平6年(177年)夏、鮮卑は三辺を寇掠した。 そこで朝廷は夏育、田晏臧旻の三将軍を派遣し、南匈奴の屠特若尸逐就単于(トトクジャクシチクシュウゼンウ)の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、三つに分かれて進み、2千余里を突っ切って遠征を行った。 檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃った。 臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。 その冬、鮮卑は遼西を寇掠した。

黄巾の乱

光和元年(178年)冬、鮮卑は酒泉を寇掠した。 このころ、鮮卑の人口が急激に増え、農耕牧畜狩猟だけでは、食糧を十分に供給することができなくなったので、檀石槐は烏侯秦水にまでやって来て川魚を獲って食料にしようとしたが、まったく獲れなかった。 そこで、汙人(倭人/朝鮮半島の日本人?)たちが魚獲りに巧みだと聞いたので、汙国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させ、食料難を解決したという。 しかし、光和年間(178年184年)、檀石槐が45歳で死ぬと、息子の和連が代わって立った。 檀石槐の死後、それまで選挙制だった鮮卑が世襲制となる。

檀石槐が45歳で死ぬと、息子の和連(ワレン)が代わって立った。 和連には父親ほどの素質や能力もなく、しかも貪欲淫乱で、裁きが不公平だったため、部下の半数はその命令を聞かなくなった。 霊帝の末年、しばしば侵略を行い、北地郡を攻めたが、北地の庶民でに巧みな者がおり、和連はそこで射殺された。 和連の子の騫曼(ケンマン)は幼かったので、兄の子の魁頭(カイズ)が代わって立った。 魁頭が立ってしばらくして、騫曼が成長すると、両者は国を争い、部下は離反してしまった。 魁頭が死ぬと、弟の歩度根(ブドコン)が代わって立った。 このように、檀石槐の死後は大人たちの位はみな世襲されることになったのである。

鮮卑は、歩度根が指導者になってから、その部族の勢いがやや衰え、彼の次兄に当たる扶羅韓(ブラカン)がまた別に数万の衆を擁して大人となった。 建安年間に、曹操が幽州を平定すると、歩度根は軻比能(カビノウ※)らとともに後漢の護烏丸校尉の閻柔(エンジュウ)を通じて、朝廷に献上物を送った。 のちに代郡の烏丸の能臣氐(ノウシイテイ)らは、漢の支配に叛き、扶羅韓に、その配下に入りたいと通知して来た。 扶羅韓は1万余騎を従えて迎えに出たが桑乾まで来たとき、能臣氐らは身内で話し合い、扶羅韓には指導力や人望がないと判断した。 彼の陣営に身を落ち着けることはできないだろうと、別に使者を送り、軻比能に連絡を取った。

3C~5C

軻比能はすぐさま1万余騎を率いてやってくると、ともども会盟を行うことになった。 軻比能はその会盟の席上で扶羅韓を殺し、扶羅韓の子の泄帰泥(セチギナイ)とその配下の者はすべて軻比能の指揮下に入った。 軻比能は自分が泄帰泥の父親を殺していることから、泄帰泥には特別に目をかけた。 歩度根は、こうしたことから軻比能を仇敵とみなすようになった。

※軻比能=中国後漢末期から三国時代鮮卑族の大人。封号は附義王。軻比能はもともと鮮卑の中でも勢力のない種族の出身であったが、勇敢で裁きが公平であり、財物を貪ることがなかったため、人々は彼を推して大人に戴いた。その住む部落が長城に近かったため、袁紹河北を占有するようになると、中原の人が多く逃れ叛いて彼のもとに身を寄せてきた。そうした者たちが武器や鎧や楯の作り方を教え、文字も少しは学び知るようになった。こうして軻比能の部下の兵士を指揮するやり方は、漢の方式にならい、外出や狩猟のときには、旗を建て、太鼓を合図にして進退させた。

 ===== 続く =====

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