牧民タタールが夢見た大洋 Ⅱ_04

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第二章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○

無題ー1

◇◆ 軻比能と魏王・曹操の戦い、軻比能の登場 ◆◇

魏の文帝(曹丕)が漢より禅譲を受けて即位すると、田豫(デンヨ)が護烏丸校尉に任ぜられ、持節の権限を持ち、護鮮卑校尉も兼ねて、昌平に駐屯した。 鮮卑の歩度根は使者を送って馬を献上し、帝は歩度根に王の位を授けた。 歩度根はしばしば父の殺害者・軻比能 (カピノウ)と戦闘を交えたが、歩度根の配下はだんだんと減り弱体となったため、彼はその配下の1万余戸を率いて大原と雁門に入って安全を計った。 歩度根はそのあと使者を送り、泄帰泥 (セチギナイ、扶羅韓の子、歩度根の甥、檀石槐の曾孫)に誘いをかけ、泄帰泥はその部族民たちを引き連れて逃亡し、歩度根のもとに身を置いた。

青龍元年(233年明帝のとき、軻比能は長年敵対関係にあった歩度根と和親の約束を結び、幷州の支配を脱して自分のところに来るように誘った。 歩度根が誘いかけに乗って幷州の支配から抜け出ると、軻比能は歩度根との和親の約束を結ぶべく、自ら1万騎を率いて彼の妻子眷族を陘北(ケイホク)まで迎えに出た。 幷州刺史の畢軌(ヒツキ)は、将軍の蘇尚(ソショウ),董弼(トウヒツ)らを送ってこれに攻撃をかけさせた。 軻比能(カピノウ)は自分の息子に騎兵を引き連れさせて派遣し、蘇尚らと楼煩(ロウハン)において会戦し、その戦闘中に蘇尚と董弼を殺害した。 そして、歩度根は泄帰泥と部族民全部をひきいて軻比能の配下に身を寄せると、幷州を侵して略奪をはたらき、役人や民衆を殺害し俘虜として連れ去った。 明帝は驍騎将軍秦朗を征伐に向かわせた。 征伐軍を迎え撃った歩度根は敗走し、軻比能に殺害された。

黄初5年(224年)になって、泄帰泥は朝廷に参内し献上物を捧げ、手厚い賜り物を授かった。 これ以後はひたすら辺境の守りに努めて、侵入略奪を行うことはなかった。 一方、軻比能(カピノウ)の部族はますます勢力を強めた。 彼は、再び素利に攻撃をかけると、漢の将軍・田豫(デンヨ)は軽装備の騎兵を率いて駆けつけ、背後から牽制した。 軻比能は小さな部隊を選んでその隊長の瑣奴(サド)に田豫の攻撃を防がせたが、田豫は積極的に攻撃をかけて、瑣奴を敗走させた。 このことがあって、軻比能は魏を信頼しなくなったが、輔国将軍の鮮于輔(センウホ)のとりなしで両者は友好関係を結んだ。 軻比能はさらに勢力を増し、部下からの信用も厚くなった。 がしかし、かつての檀石槐には及ばなかった。

後漢歴代

魏において明帝(曹叡)が即位すると、異民族との関係を努めて平和にして軍事行動をなくそうとし、2つの部族を名目的にの支配下に繋ぎ止めておくだけにとどまった。 この温柔策に対して、軻比能の配下に身を寄せていた泄帰泥が、漢中の幷州を再び犯して略奪を働き、役人や民衆を殺害し俘虜として連れ去った。 帝は驍騎将軍を征伐に向かわせた。 遠征軍の到来を恐れた泄帰泥は軻比能に叛いて、その部族民を率いて朝廷に降服すると、帰義王の位を授かり、元通り幷州に居住することを許される。

太和2年(228年)、田豫は通訳の夏舎(カシャ)を軻比能の娘婿の鬱築鞬(ウツチクケン)の部族のもとに行かせたが、夏舎は鬱築鞬に殺された。 その秋、田豫は西部鮮卑の蒲頭(ブス)と泄帰泥(セチギナイ)を率い長城を出て鬱築鞬を討ち、これをひどく打ち破った。 その帰還の途上、馬城まで来たとき、軻比能が自ら3万騎を率いて田豫の軍を包囲し、その包囲は7日に及んだ。 上谷太守の閻志(エンシ)は、閻柔(エンジュウ)の弟で、もともと鮮卑たちの信頼を受けていた。 その閻志が行って諭したため、軻比能はすぐさま包囲を解いて引き揚げた。そののち、恩賞と信義とでもって鮮卑たちを懐かせた。 この事件以降 軻比能も、しばしば長城に入り、幽州の役所にやってきて献上物を捧げている。 大きく時代が変わろうとしていた。 漢王朝は統治能力を失っていた。

魏の文帝.jpg

もともと、鮮卑は匈奴の支配下にあったものが、独立して次第に匈奴を漠北に追いやって勢力を築き、部族の中から檀石槐がすべての部族をまとめて統治して来た。 しかし彼の死後、部族間で相争う中で鮮卑の一部族であった拓跋部が台頭し、その中心氏族である拓跋氏が華北を統一し、北魏を建国するに至るのだが、 後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおきた。 この反乱を制圧できなかった漢王朝。 この農民の運動以降、589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続ける。 隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代というのだが、紀元前2世紀の秦が中国を統一した時から蒙古高原で巨大な帝国を築いていた匈奴が漢中を脅かし続けて来た。

匈奴帝国は、前漢の時代 漢を属国のように扱い、続く後漢の時代までの約四百年間は匈奴が漢中を圧迫し続け、巨額の財貨を奪い去った。 そして、隋の再統一の時に至るまで中国の西部は丁零(高車)に、北部と東部は鮮卑に蹂躙され続けた。 更には、五胡十六国・南北朝時代は鮮卑の拓跋氏が漢中の一大勢力として中華を縦断する。 しかも尚、この中華が混乱し、群雄割拠の時代でも北方で生活する遊牧の民は柔然たる遊牧国家を形成し、隋の時代に成れば突厥として地球史上、最強にして最大の帝国を築き上げて行く。  この時期、日本朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。

話を戻せば、黄巾の乱が鎮圧されたあと、豪族が各地に独自政権を立てた。 中でも有力であったのが、後漢王朝の皇帝を擁していた曹操である。 しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。 結局、曹操の死後、220年に曹操の子の曹丕後漢皇帝から皇帝の位を譲られ、を建国した。 これに対して、221年には、現在の四川省に割拠していた劉備が皇帝となり、を建国した。 さらに、江南の孫権も229年に皇帝と称して、を建国した。 この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代というのだが、三国時代匈奴鮮卑などの周辺民族を傭兵として雇い入れていたのである。

匈奴西走

 ===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/03/13/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/03/15/

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
*当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp/

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中