牧民タタールが夢見た大洋 Ⅱ_05

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第二章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○

源中国人

◇◆ 西方の遊牧民・丁零の東行 ◆◇

丁零(テイレイ)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族丁令、丁霊、勅勒(チョクロク)とも表記される。4世紀6世紀では高車(コウシャ)、6世紀8世紀では鉄勒[4](テツロク)とも呼ばれた。

原名は“車”を指すモンゴル語=テレゲンtelegem=に由来すると考えられ、丁零,鉄勒はその音訳で、高車はその意訳であると考えられている。 あるいは、突厥碑文に見えるTölös(テレス)に比定する説、あるいは突厥と同名でTürk(テュルク)またはその複数形Türklär(テュルクレル)に比定する説、あるいは突厥の手足にされたことからTiräk(ティレク:扶助者)に比定する説があったが、P.A.Boodbergは『Three Notes on the T’u-chüeh Turks』(1951年)において、古アルタイ語で“車”を指すTerege,telegenと関連するTerek,Telekに比定し、後に“高車”と呼ばれることに信憑性を持たせたのだが、 語源がどうであれ、さて・・・・・・・。

匈奴で冒頓単于(前節参照)が即位すると、周辺の国々は次々と併合され、バイカル湖南の渾庾屈射丁零、鬲昆薪犁の部族も匈奴に服属することとなった。 本始2年(前72年)、匈奴が烏孫の連合軍に攻撃されて敗北を喫し、さらにその冬の大雪に遭い、多くの人民と畜産が凍死すると、それに乗じて丁令は匈奴に攻撃をかけて離反した。 そして、神爵元年(前61年)、丁令は3年連続で匈奴に侵攻し、人民数千を殺略し、馬畜を駆って去った。 匈奴は万余騎を派遣してこれを撃ったが、何も得ることなく帰還している。

北方勢力

紀元前4948年頃、西匈奴郅支単于は烏孫を破り、烏掲堅昆、丁令を併合し、堅昆の地に本営を置いた。 また、後漢元和2年(85年)、北匈奴大人の車利や涿兵らは漢に亡命すべく入塞する事件が起きた。 時に北匈奴は衰耗しており、部衆が次々と離反していった。 それに乗じて南匈奴がその南を攻め、丁零がその北を寇し、鮮卑がその東を撃ち、西域がその西を侵したので、北匈奴は自立不可能となり、遠く西方へ去っていった。 =北匈奴の西走が地球規模の民族大移動を起こす遠因となる=

北匈奴が去ったモンゴル高原において、前節で記述したごとく 千節で鮮卑の檀石槐が諸部族を統合し、かつての匈奴の版図に匹敵するほどの帝国を築いて、檀石槐は丁令の南下を阻んだ。 しかし、檀石槐が他界すると正嗣が幼過ぎたがゆえに後継者血統に混乱が生じた。 鮮卑は王統の血脈と帝国内の有力大人とで権力闘争が絶えることがなかった。 それゆえ、檀石槐の死以後の丁零はしばらく独立した状態が続いていた。

◆◇呼得国は葱嶺の北に在り、烏孫の西北、康居の東北に在り、勝兵は万余人、畜牧に随い、良馬を出し、貂あり。堅昆国は康居の西北に在り、勝兵は三万人、畜牧に随い、これもまた多くの貂,良馬あり。丁令国は康居の北に在り、勝兵は六万人、畜牧に随い、名鼠皮を出し、白昆子,青昆子皮を出す。この上の三国は、堅昆が中央で、俱に匈奴単于庭安習水を去ること七千里、南の車師六国を去ること五千里、西南の康居界を去ること三千里、西の康居王治を去ること八千里の距離にある。或いはこの丁令を匈奴の北の丁令であるとするが、この丁令は烏孫の西に在り、その種は似ているが別である。また匈奴の北には渾窳国,屈射国,丁令国,隔昆国,新梨国があり、明らかに北海の南にも丁令があるが、これも烏孫の西の丁令ではない。烏孫の長老はこの丁令には馬脛国があると言い、その人の音声は雁騖に似て、膝から上の身頭は人であり、膝から下には毛が生え、馬の脛と蹄がある。馬には乗らないが馬よりも早く走り、壮健で勇敢に戦う。— 『魏略』西戎伝 ◇◆

丁零族翟氏

丁零族の翟(テキ)氏は代々康居(コツコ)に住んでいたが、後に中国に移住し、翟斌(テキヒン)の代になって後趙に臣従した。 前秦苻堅が華北を統一すると、翟斌ら丁零族は前秦に臣従し、新安郡澠池郡に移住する。 その後 383年12月、前秦の衛軍従事中郎となっていた翟斌は河南で挙兵し、前燕復興を目論む慕容垂(ボウヨウスイ、鮮卑慕容部の出身。前燕慕容皝の第5子)らと合流して前秦に反旗を翻した。 384年、前秦から独立した慕容垂は後燕を建国し、翟斌を建義大将軍・河南王とした。 しかし翟斌はまもなく後燕に対して反乱を起こしたため、慕容垂から斬首された。

翟斌の兄の子である翟真(テキシン)は承営に逃れて拠点を置き、前秦の長楽公苻丕(フヒ)と結んで後燕に対抗した。  385年4月、翟真が承営から行唐に遷ると、翟真の司馬である鮮于乞(センウチ)は翟真を殺し、自ら立って趙王となった。 営人は共に鮮于乞を殺し、翟真の従弟である翟成(テキセイ)を立てて主とした。 しかし、その衆の多くは後燕に降り、翟真の子である翟遼(セキリョウ)は黎陽(シュンヨウ)に奔走した。 5月、燕王の慕容垂常山に至り、翟成を行唐で包囲し、7月、翟成の長史である鮮于得(司馬)は翟成を斬って慕容垂に降った。 慕容垂(燕王)は行唐を攻め落とし、翟成の衆をことごとく穴埋めにしたと言う。

東晋の黎陽に逃れた翟遼は黎陽郡を乗っ取り、周辺の諸郡を傘下に入れた。 しかし387年1月、慕容垂(燕王)が侵攻してくると降伏し、慕容垂から徐州牧,河南公に封ぜられる。間もなくして翟遼は後燕に叛いて清河郡平原郡を略奪。 388年2月には自ら魏天王と称し、翟魏を建国、滑台に都を置いた。 息子の翟釗(てきしょう)の代になると、たびたび後燕に侵攻しては撃退され、392年には後燕に滅ぼされた。 翟釗は一人西燕に逃れて慕容永から車騎大将軍・東郡王に封ぜられるが、1年後に謀反を起こして誅殺される。

西域3世紀

  ===== 続く =====

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