牧民タタールが夢見た大洋 Ⅱ_06

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第二章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○ 

4世紀五胡

◇◆ 鮮卑の中国化、拓跋氏政権確立 ◆◇

五胡十六国時代を経た後の華北は、北魏によって統一されて南北朝時代を迎える。 各丁零族も北魏の支配下に入るが、上党丁零の翟都(テキト)、榆山丁零の翟蜀(テキショク)、西山丁零の翟蜀、洛支、定州丁零の鮮于台陽や翟喬(テキキョウ)といった勢力がたびたび北魏に対して反乱を起こしては鎮圧された。 一方で、北の草原地帯に古くから存在し、移動しなかった丁零族は高車(コウシャ)と呼ばれ、後の鉄勒(テツロク)となってゆく。

因みに、モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏(タクハチウブ)政権)から高車と呼ばれるようになる。 これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる。 初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部代国北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然(ニュウネン)が強大になったため、それに従属するようになった。 487年、高車副伏羅部の阿伏至羅(アフクシュラ)は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。 阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。 また、鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。 やがて鉄勒は九姓/トクズ・オグズと呼ばれ、そのトクズ・オグズから回紇(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク),拔悉蜜(バスミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。

五胡16国

拓跋部 : 拓跋部タクハツブ)は、鮮卑族の一部族で、華北北魏などの王朝を建てた。 檀石槐の統一鮮卑が崩壊し、再び分裂した鮮卑族において台頭してきたのが拓跋部である。 3世紀後半に拓跋力微(タクハツリキミ)が内蒙古地方のフフホト盆地に南下してきて、そこを根拠地とし、4世紀の初め、力微の孫の拓跋猗㐌(タクハツイイ)と猗盧(イル)が西晋を援けて匈奴劉淵五胡十六国時代の漢(後の前趙)の創建者=と戦い、その功によって大単于・代公に封ぜられ、陰山地帯の鮮卑の統領にのし上がった。 猗盧は并州刺史劉琨に桑乾河の上流、句注山以北の土地の割譲を要求し、大同盆地を含む内長城地帯を領有した。 このように、北アジアの騎馬民族が華北に領土的要求をしたのは拓跋部が最初であり、そうしたことで直接華北の中国人と政治的、軍事的、文化的に関係を持った。

315年に猗盧は代王となり、代国を建てた。 フフホト盆地の盛楽に都城を築き、これを北都とし、大同盆地の平城(現山西省大同市)を修復して南都とし、さらに桑乾河の北岸に新平城を築城した。 このように、拓跋部の支配が華北に及ぶと、ただちに中国風の城郭を築き、制度も中国風に整えた。 その後は一時分裂状態に陥ったが、拓跋什翼犍(タクハツジュウイキコン)が代王となると、盛楽の南に新城を築き、中国人官僚を起用し、兄弟相続から父子相続に変え、国の制度や社会をやはり中国風にした。 その後は一時前秦に支配されたが、386年に什翼犍の孫の拓跋珪(タクハツケイ、北朝北魏の初代皇帝・道武帝)が再び代国を復活させ、399年には国号を魏(北魏)と改め皇帝に即位した。 北魏は、太武帝の時代には華北を統一し、中国は南北に分かれ、南北朝時代に入る。

道武帝

◇◆ 北方の遊牧民・柔然の歴史的概略 ◆◇

アジアの歴史書に目を落とせば、蠕蠕(ぜんぜん)、苪苪(ぜいぜい)、茹茹(じょじょ)等々で記されている中国中原最北の地に居住する人々の記録がある。 柔然(じゅうぜん)のことである。 今尚、農耕定着民族にはなじみが薄い。 しかし、5世紀にユーラシア大陸中央部に一大帝国“柔然可汗国(ジュウゼン・カカンコク)”を建設している。 なじみが薄いがゆえに、その歴史を俯瞰して本論に進もう。

柔然の始祖は木骨閭モクコチロ)といい、故にその王族は郁久閭(イクキュウリョ)氏と言った。 3世紀ごろには鮮卑拓跋部(上記参照)に従属していたが、鮮卑が中国へ移住した後のモンゴル高原で勢力を拡大し、5世紀初めの郁久閭社崙(イクキュウリョ・シャロン)の時代に高車(上記参照)を服属させてタリム盆地一帯を支配し、北魏と対立した 。また社崙は可汗(カガン:後のハーンの元)の君主号を使った。 社崙は北魏明元帝の軍に敗れて逃走中に死去する。

北魏との対立を深めた柔然は南朝北涼北燕高句麗吐谷渾(チベット族)と結んで北魏包囲網を形成した。夏,北涼,北燕はやがて北魏により滅ぼされるが、柔然は勢力を保ち続け、吐谷渾を介在して宋と連絡を取り合っていた。 これに不快感を覚えた北魏の太武帝は429年,449年の2回にわたる親征軍により、柔然は本拠地を落とされて可汗は逃走中に死去した。 しかしそれでもなお柔然は強勢を維持し続け、北魏も対南朝の関係から北だけに目を向けるわけにはいかなかった。

柔然が本格的に弱体化するのが485年,486年に配下の高車が自立してからである。 高車の反乱は治めたもののそれに乗じて、鍛鉄奴隷であった突厥が隆盛し、552年、突厥の伊利可汗(イリ・カガン)との戦闘に敗れて可汗の郁久閭阿那瓌(イクキュウリョ・アナカイ)が自殺し、残党は北斉に援助を求めたが突厥の要請により殺され、柔然は完全に滅亡した。

雲崗洞窟

===== 続く =====

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