牧民タタールが夢見た大洋 Ⅱ_07

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第二章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○

柔然帝国

◇◆ 柔然の勃興と社崙の治世 ◆◇

史書によると、“柔然とは東胡=春秋戦国時代から代にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族=の苗裔で、姓は郁久閭氏(イクキュウリョ)という。 神元帝拓跋力微(タクバツリキミ)、在位:220年-277年)の末、字を木骨閭(モクコチロ、郁久閭氏の語源)という者が拓跋部の騎卒となる。 穆帝拓跋猗盧(タクバツイル、五胡十六国時代代国の初代の王、在位:308年-316年)の時、木骨閭は拓跋部を脱し、高車・紇突隣部に依拠。 木骨閭が死ぬと、子の郁久閭車鹿会(イクキュウリョ・シャロクカイ)は部族名を「柔然」と号し、ふたたび拓跋部に服属した。 車鹿会は部帥となり、毎年馬畜・貂豽皮を献上した。 車鹿会が死ぬと子の吐奴傀が立ち、吐奴傀が死ぬと子の跋提が立ち、跋提が死ぬと子の地粟袁が立った。” と記している。

地粟袁が死ぬと、柔然部は東西に分かれ、東部は長男の匹候跋(イクキュウリョヒツコウハツ)が継ぎ、西部は次男の縕紇提(イクキュウリョウンコツテイ)が統治した。 このころ、前秦苻堅(フケン)によって代国が滅び、西部柔然は匈奴鉄弗部(テツブツブ)の劉衛辰(リュウエンシン)のもとに付した。

代国を復興し、北魏を建てた拓跋珪(タクバツ・ケイ=道武帝=)は、周辺諸部を次々と服属させたが、柔然部だけは帰服しなかったため、登国6年(391年)10月、ついに自ら討伐を行うに至り、大磧南の床山下にて柔然の半数は捕らえられた。 さらに魏将長孫嵩(チョウソン・スウ)および長孫肥(ヒ)の追撃により、部帥の屋撃は殺され、匹候跋は降伏した。 一方西部柔然の郁久閭縕紇提(イクキュウリョ・ウンコツテイ)は、劉衛辰(リュウ・エイシン、匈奴鉄弗部大人)のもとへ逃れるところを跋那山において道武帝率いる北魏軍に追いつかれ、ついに降伏した。

柔然北魏

その後の登国9年(394年)、縕紇提の子の曷多汗(カタカン)は兄の郁久閭社崙(イクキュウリョ・シャロン)とともに父を棄て西走したが、長孫肥の追撃にあい殺され、社崙は数百人を率いて叔父の匹候跋のもとに逃れた。 しかし間もなく社崙は匹候跋を殺してその位を奪い、五原以西の諸部を略奪し漠北へ逃れた。 社崙は後秦姚興(ヨウコウ)と和親を結び、天興4年(401年)12月、道武帝が材官将軍の和突を派遣して後秦の属国である黜弗・素古延部を襲った時は、救援の軍を出して北魏軍を撃破している。

漠北へ退いた社崙は高車を侵略、その諸部をことごとく征服し、初めて軍法を立てた。 その後、それより西北に匈奴の余種がおり、そこの部帥の拔也稽は反旗を翻して社崙を攻撃したが、頞根河(オルホン川)において社崙に破られことごとく征服された。 このころの柔然は極めて強盛となり、西は焉耆(エンギ)の地(カラシャール地方)、東は朝鮮の地、北は沙漠を渡って瀚海(バイカル湖)にまでおよび、南は大磧(陰山山脈北麓の砂礫地帯)に臨んだ。 ここにおいて社崙は自ら丘豆伐可汗(在位:402年- 410年)と号した。

天興5年(402年)12月、社崙は北魏が姚興を撃つと聞き、遂に長城を越え参合陂に入り、南は豺山及び善無北澤に至る。 道武帝は常山王の拓跋遵(タクバツ・ジュン)を派遣しこれを追撃するが追いつかなかった。 天賜年間、社崙の従弟の悦代,大那等は社崙を殺して大那を即位させようと謀るが発覚し、大那等は北魏に亡命した。 丘豆伐可汗=社崙=は領内を粛清して永興元年(409年)冬、再び長城を越える。 しかし、永興2年(410年)、明元帝拓跋珪/道武帝の長子)は柔然を討伐、社崙は遁走し道中死去した。 社崙の子度拔はまだ幼かったので、部落は社崙の弟郁久閭斛律(イクリュウリョ・コクリツ)を立て藹苦蓋可汗(在位:410年- 414年)と号した。

柔然帝国

 翌年の永興3年(411年)、斛律の宗人悦侯,咄觸千ら数百人が北魏に降った。 斛律は威を畏れて自守し、南侵しなくなって北辺は安静した。 そして、神瑞元年(414年)、斛律は娘を北燕馮跋(フウバツ、五胡十六国時代北燕の第2代天王)に嫁がせようするさなか、斛律の長兄の子歩鹿真(ホウロクシン)は、柔然の大臣樹黎,勿地延らと共謀し、斛律を捕らえ娘ともども馮跋のもとへ放逐し、可汗に即位した。

郁久閭歩鹿真は社崙の子の社拔とともに、昔 社崙の時代に恩があった大人(部族長)の叱洛侯の家に行き、その少妻を淫した。 そこで少妻は叱洛侯が謀反を企み、郁久閭大檀(イクリュウリョ・タイタン)を可汗にしようとしていることを告げた。 歩鹿真は即座に叱洛侯を包囲した。 追い詰められた叱洛侯は自害したので、歩鹿真は大檀を襲った。 しかし、歩鹿真は逆に捕えられて絞殺されてしまう。 そして、大檀は自ら立って可汗となる。

焉耆国

 ===== 続く =====

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