牧民タタールが夢見た大洋 Ⅱ_08

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第二章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○

柔然の世紀

◇◆ 大檀の治世と予成の治世 ◆◇

歩鹿真を殺した大檀は可汗に推戴され、牟汗紇升蓋可汗(在位:414年429年)と号した。 12月、大檀は北魏の北辺を侵した。明元帝はこれを親伐し、山陽侯の奚斤等を遣わしこれを追撃したが大雪にあい、あえなく撤退した。 泰常8年(423年)に明元帝が崩御すると、太武帝が即位した。 始光元年(424年)秋、大檀はこれに乗じて雲中で略奪、太武帝は親伐するが包囲されてしまう。 しかし、北魏軍の軍士が柔然の部帥の於陟斤を射殺すると、それを恐れた大檀は撤退する。翌年、太武帝は大挙し東西五道を並進して柔然を討ち、大檀は北へ逃れた。

神䴥元年(428年)8月、大檀の子の将万余騎を派遣して塞に入り、辺民を殺掠し逃走。北魏の高車軍は追撃しこれを破る。 神䴥2年(429年)、太武帝はふたたび柔然討伐の軍を発し、栗水に至る。大檀の民衆は西奔し、大檀の弟の匹黎は兄の所へ赴こうとしたが、平陽王の長孫翰(チョウソンカン)軍に遭遇し、長孫翰はこれを撃ち、その大人数百人を殺した。 大檀はこれを聞くと震怖し、廬舍を焼いて西走し、国落は四散した。 その後、大檀の部落は衰弱し、大檀自身も病気になり死去した。

太平真君11年(450年)、郁久閭 吐賀真(イクキュウリョ・トカシン)が死に、子の予成(ヨセイ)が即位し、受羅部真可汗(シュウラブシン・カガン、在位:450年485年)と号した。 和平5年(464年)、予成は柔然独自の元号を立てて永康元年とした。 永康7年(470年)8月、予成が北辺を侵したので、献文帝(ケンブンテイ、北朝北魏の第5代皇帝)は北討する。 永康8年(471年)、柔然は南朝に朝貢。 永康9年(472年)2月、柔然は北魏に侵入した。 北魏はこれを討ち、柔然別帥の阿大干を降伏させる。 そして、永康12年(475年)、予成が北魏に通婚を求めた。 予成は何度も国境を侵犯してきたので、北魏の官僚は使者を拒絶し、軍を出撃させて柔然を討伐することを求めた。

柔然と丁零

しかし、献文帝は柔然を討つべきではないとし、柔然には「婚姻とは軽々しく行うものではない」と伝えた。そのため予成は献文帝の在位中には改めて通婚を求めなかった。 永康14年(477年)4月、予成は莫何去汾の比抜らを北魏に派遣し、良馬やの皮衣を献上した。 永康17年(480年)3月、柔然は北魏に遣使を送って朝貢する。 また、南朝の南斉に遣使を送って朝貢し、南斉の太祖・蕭道成(シュウドウセイ)に北魏を挟撃することを提案した。 この後数年間、柔然は北魏と南斉に遣使を送って朝貢した。 永康22年(485年)12月、柔然は北魏の塞を侵犯し、任城の王澄は衆を率いてこれを防ぐ。この年、予成は死去し、子の豆崙(トウロン)が継いで伏古敦可汗(フクコトン・カガン、在位:485年492年)となる。

太平3年(487年)8月、柔然は北魏の塞を侵す。 これに対し、北魏の平原王陸叡(リクエイ)は5千騎を率いてこれを討ち、柔然帥の赤阿突らを捕える。 このほかにも豆崙は頻繁に北魏の塞を侵犯したので、柔玄鎮将の李兜はこれを討った。 この年、柔然隷属下の阿伏至羅とその従弟の窮奇は、豆崙の北魏侵犯を諫めたが、豆崙が聞き入れないので、所部の衆10余万落を率いて、柔然から離反した。 豆崙はこれを討つが敗戦を重ね、東へ移った。 しかし、太平8年(492年)8月、北魏の孝文帝(コウブンテイ、北朝北魏の第6代皇帝)は陽平王の元頤(ゲンイ),左僕射の陸叡を都督とし、領軍将軍の斛律桓ら12人の将軍、騎兵7万を統率して豆崙を討伐させた。

豆崙は叔父の郁久閭那蓋(クキクロナカイ)とともに高車の阿伏至羅を撃った。 豆崙は浚稽山の北から西方に向かい、那蓋は金山(アルタイ山脈)から出た。  豆崙は何度も阿伏至羅に敗れたが、那蓋は勝利と戦利品の獲得を重ねた。 これにより柔然の民衆は那蓋に天の助けがあるとし、那蓋を推戴して可汗としようとした。那蓋は固辞したので、民衆は豆崙母子を殺害し、遺体を那蓋に示した。 こうして那蓋は可汗位を継ぎ、候其伏代庫者可汗(コウキフクタイコシャ・カガン)と号した。

柔然の位置

太安13年(504年)9月、柔然の12万騎は六道より並進し、沃野鎮懐朔鎮に至って、南の恒州代郡を略奪しようとした。 北魏の宣武帝(センブテイ、北朝北魏の第7代皇皇帝)は左僕射源懐にこれを討たせ、柔然を遁走させた。 太安15年(506年)、那蓋が死去すると、子の伏図(フド)が立って、他汗可汗と号し、称元して始平元年とした。

10月、伏図は紇奚勿六跋を朝献の使者として北魏に派遣し、和親を結ぶことを願い出た。 しかし、宣武帝は使者に回答をしなかった。 始平3年(508年)9月、伏図は再び紇奚勿六跋を北魏に派遣して、一封の函書を奉じ、またの皮衣を献上させた。 しかし、宣武帝は受け取らず、先年の説得を繰り返して帰国させた。この頃、伏図は高車王と蒲類海(バリコン湖)北で戦い、これを破る。 しかし、北魏龍驤将軍の孟威(モウイ)がやってくることを知ると、伏図は怖れて遁走し、これに乗じて反撃してきた弥俄突に殺害された。

柔然では伏図の子の郁久閭 醜奴(イクキュウリョ・シュンド)が即位し、豆羅伏抜豆伐可汗(トウラフクハツトウハツ・カガン)と号した。 そして、建昌9年(516年)、醜奴は西の高車を征討してこれを大破し、高車王の弥俄突(ヤガトク)を捕らえて殺害した。 柔然は反逆した者を全て併呑し、再び強盛となった。 この頃柔然は初めて城郭を築き、木末城と命名した。 8月、柔然は梁に遣使朝献した。 建昌10年(517年)12月、柔然は再び俟斤の尉比建と紇奚勿六跋,鞏顧礼らを北魏に遣わして朝貢した。 柔然はこの時、北魏と対等の礼で接したため、今まで同様北魏に相手にされないところであったが、北魏の朝儀で匈奴の故事に依ったため、北魏から初めて返答が返ってきた。

3世紀タリム

===== 続く =====

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