牧民タタールが夢見た大洋 Ⅱ_09

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第二章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○

突厥貴人

北魏正光元年(520年)、郁久閭醜奴(イクキュウリョ・シュドウ)がその母の候呂陵氏と大臣に殺されると、弟の阿那瓌(アナカイ)が立って可汗となった。 阿那瓌が即位してから10日、族兄の俟力発(イルテルベ:官名)の示発(シハツ)が数万の軍勢を率いて攻撃してきた。 阿那瓌は戦ったが敗れ、弟の乙居伐を伴って軽騎で北魏に逃れて帰順した。 まもなく阿那瓌の母である候呂陵氏と二人の弟は示発に殺害され、正光2年(521年)1月、阿那瓌ら54人が別辞を述べることを求めた。

孝明帝(コウメイテイ、北朝北魏の第8代皇帝)は西堂に臨御すると、阿那瓌と叔父や兄弟5人を引見し、堂上に昇らせて座を賜い、中書舎人の言葉を伝えさせた。 また、孝明帝は侍中の崔光,黄門の元纂に詔を下し、城外で阿那瓌を激励して見送らせた。 時に阿那瓌が出奔した後の柔然本国では、阿那瓌の従兄の俟力発の郁久閭婆羅門(イクキュウリョ・バラモン)が数万人を率いて示発を討伐し、これを破ったので、柔然人は婆羅門を推戴して可汗とし、弥偶可社句可汗(ビゴウカシャコウ・カガン、在位:521年524年)と号していた。

この時、安北将軍・懐朔鎮将の楊鈞(ヨウキン、北魏の鎮遠将軍)は阿那瓌が復権することが難しいことを上表した。 しかし孝明帝は聞き入れず、2月、孝明帝は柔然使者の牒云具仁を派遣して、婆羅門に阿那瓌を迎えて国を返すよう説得させた。 だが、婆羅門は傲慢で従わず、牒云具仁に礼敬を強要した。 牒云具仁は節を持って屈服しなかった。 そこで婆羅門は牒云具仁に莫何去汾・俟斤の丘升頭ら6人と2千の兵を付けて、阿那瓌を出迎えさせた。 5月、牒云具仁は懐朔鎮に帰還し、柔然の情勢を報告した。 阿那瓌は懼れて入国しようとせず、上表して洛陽への帰還を求めた。

柔然

しかしこの時、婆羅門は高車(コウシャ、前節参照)に放逐され、十部落を率いて涼州に赴き、北魏に帰順・投降したので、阿那瓌は数万人の柔然人に迎えられ復権することができた。 孝昌元年(525年)春、阿那瓌は軍を率いて破六韓抜陵(ハロクカン・バツリョウ、北魏六鎮の乱の指導者)を討伐した。 孝明帝は詔を下して牒云具仁を派遣し、阿那瓌を慰労して届けさせた各種の品々を賜った。 阿那瓌は詔命を拝受し、兵十万を指揮して武川鎮から西の沃野鎮に向かい、何度も破六韓抜陵軍と戦って勝利。 4月、孝明帝から慰労の言葉を拝命と同時に下賜を受ける。

すでに阿那瓌の部落は平穏であり、兵馬は次第に大勢力となったので、阿那瓌は敕連頭兵豆伐可汗と号した。 永煕3年(534年)12月、孝武帝(在位:532年 – 534年)が毒殺されると、北魏は東西に分裂し、翌年(535年)1月、東魏西魏が成立した。 東魏と西魏は柔然と婚姻関係を結び、以後頻繁に政略結婚が行われた。 北斉天保3年(552年)、阿那瓌は突厥に敗れて自殺した。 太子の郁久閭菴羅辰(イクキュウリョ・アンラシン)と阿那瓌の従弟の登注(イクキュウリョ・トウチュウ、柔然可汗)俟利、登注俟利の子の庫提(イクキュウリョ・コテイ)は皆民衆を従えて北斉に亡命した。 柔然の残党は登注俟利の次子の郁久閭鉄伐(イクキュウリョ・テツハツ)を即位させて可汗とした。

天保4年(553年)、文宣帝(ブンセンテイ、北朝北斉の初代皇帝)は登注俟利と子の庫提を送って北方に帰還させた。 まもなく鉄伐が契丹に殺害され、柔然の民衆は登注俟利を即位させて可汗とした。 しかし、登注俟利も大人の阿富提に殺害され、また柔然の民衆は庫提を即位させて可汗とした。 この年、再び突厥に攻撃され、全国民を伴って北斉に亡命した。 それで文宣帝は北方の突厥を討伐し、柔然を迎え入れると、可汗庫提を廃位して、阿那瓌の子である菴羅辰を即位させて可汗とした。 文宣帝は自ら朔方で突厥を追撃し、突厥が投降を願うと、これを許して帰還している。

袁紇部.png

かくして柔然の貢献は絶えなくなった。 天保5年(554年)3月、菴羅辰が反乱を起こすと、文宣帝が自ら討伐し、これを大破した。 菴羅辰父子は北方に逃れた。 4月、柔然が代州に侵攻したので、文宣帝は晋陽から柔然を討伐に赴き、広州の黄堆に至ると、柔然軍は散り散りに逃げ去った。 この時、主力軍が帰還した後、文宣帝麾下の千騎余りが柔然の別部の軍勢数万と遭遇し、四方から包囲・圧迫された。

文宣帝は普段と変わらず平静で、戦闘を指揮した。柔然軍は薙ぎ倒され、ついに北斉軍は兵士を放って包囲を突破し、脱出した。 柔然軍が撤退・逃走すると、これを追撃。 25里にわたって死体が連なり、菴羅辰の妻子と3万人余りの捕虜を獲得した。 5月、再び文宣帝は柔然を討伐し、これを大破した。 6月、西方での戦局に打開策が見えぬまま、柔然は部民を率いて東方に移動し、南方に侵攻しようとした。 これに対し、文宣帝が軽騎兵を率いて金川下流で迎え撃とうとしたので、柔然は文宣帝の動きを聞いて遠方に逃れた。

天保6年(555年)6月、再び文宣帝は自ら柔然を討伐した。 7月、文宣帝は白道に駐屯し、輜重=軍需品=を留めると、自ら軽騎兵5千を率いて柔然を追撃した。 自らも矢や投石に身を晒し、何度も柔然軍を大破した。 沃野に至ると、多くの捕虜・戦利品を獲得して帰還した。 この時、柔然は何度も突厥に敗れていたので、遂に部落の千家余りを率いて関中に亡命した。 すでに突厥は軍勢の強大さを恃み、また西魏とも友好関係にあった。

突厥の木汗可汗(ボッカン・カガン、在位:553年572年)は柔然の残党が西魏や北斉を頼ることを怖れ、駅馬を乗り継がせて使者を派遣し、安心を得るために皆殺しにするよう求めた。 西魏の宇文泰(ウブンタイ、北周文帝)は論議してこれを許可し、柔然可汗以下、3千人余りを捕縛して、彼らを青門外で斬殺した。 未成年者は免除して、全員を王公の家に分け与えた。 かくして、柔然は終焉した。

突厥

===== 続く =====

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