牧民タタールが夢見た大洋 Ⅲ_01

❢❢❢草原の民 ”タタール / 韃靼“ 征西譜 第三章❢❢❢

○◎ =遊牧騎馬民族の南下、征服王朝の興亡 = ◎○

西方移行

◇◆ 遊牧民の連合・鉄勒 ◆◇

鉄勒(テツロク)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシア北部に分布した突厥以外のテュルク系遊牧民の総称。 この中から回鶻ウイグル)が台頭し、回鶻可汗(ウイグル・カガン)を建国して唐王朝に多大な影響を与える。 ウイグルが台頭する前の草原の覇者は突厥(トッケツ)であった。 突厥は、6世紀に中央ユーラシアで鉄勒と共存して覇権を確立したテュルク系遊牧国家。 もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗(トッケツ・カガン)国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。 しかし、582年には内紛によって東西に分裂する。

鉄勒の祖先は匈奴(キョウド)の後裔・別種といわれる。 その種族は最多で、西海(アラル海)の東から山や谷に拠って生活してきた。 姓氏は各々別であるが、彼らを総称して“鉄勒”と謂った。 それぞれに君長は無く、分散して東西両突厥に属した。 また、鉄勒の習俗はだいだい突厥と同じであるが、突厥と異なる点はただ、男が結婚の儀式を済ますとすぐ妻の家に住み、出産を待ち、産まれた男女児に乳を飲ませてから自分の家に帰るということ。 また、死者を埋葬するということだけである。

中国史

西魏大統12年(546年)、鉄勒が柔然を討とうとしたので、土門(トメン、後の伊利可汗)は突厥部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させている。 そして、突厥の木汗可汗(ボクカン・カガン、在位:553年-572年)は即位するや、諸外国を次々に併合していき、柔然を滅ぼして中央ユーラシアに大帝国を築き上げた。 この時に鉄勒諸部も突厥に併合されている。 その後 開皇19年(599年)、文帝(の初代皇帝)は太平公の史万歲や晋王の楊広(煬帝隋朝の第2代皇帝)を派遣して東突厥啓民可汗(ケイミン・カガン、在位:587年-609年)を従属させると、鉄勒は分散した。

大業元年(605年)、西突厥泥撅処羅可汗(デイケッショウラ・カガン、在位:603年頃 -612年)は鉄勒諸部を撃ち、重税を課した。 また、薛延陀(セツエンダ、鉄勒の有力部族のひとつ。その中心氏族は一利咥氏)などの諸部に謀反の疑いをかけ、その魁帥数百人を誅殺した。 これにより鉄勒諸部は泥撅処羅可汗に叛き、契弊部の俟利発俟斤(イルテベル・イルキン:官名)の契弊歌楞(契苾哥楞)を推戴して易勿真莫何可汗(エキイブツシンボカ・カガン)とし、貪汗山=現在の新疆トルファン北部の柏格多山=に割拠した。 また、薛延陀部の俟斤の子である乙失鉢(イシュバル、也咥)を立てて小可汗とし、燕末山の北に割拠した。 そして、泥撅処羅可汗を破ると、易勿真莫何可汗は勢力を増していった。 易勿真莫何可汗は衆心を得ていたので、隣国に憚られ、伊吾高昌焉耆の諸国はことごとく彼に附いた。

諸部が連帯して強勢になった鉄勒は、大業3年(607年)には、鉄勒は隋に遣使を送って方物を貢納している。 他方、西突厥で射匱可汗(シャキ・カガン、在位:612年- 619年頃)が強盛となると、薛延陀,契弊(契苾)の2部は可汗号を棄ててこれに臣従した。 その後も、迴紇(ウイグル)などの六部は鬱督軍山(ウテュケン山)に在って、東突厥の始畢可汗(在位:609年619年)に属し、乙失鉢の所部は金山(アルタイ山脈)に在って、西突厥の統葉護可汗(トウヨウゴ・カガン、在位:619年頃 – 628年)に臣従している。

貞観元年(627年)、陰山以北の薛延陀,迴紇,拔也古などの諸部は相次いで反乱をおこし、その欲谷設(ユクク・シャド:官名)を敗走させた。 東突厥の頡利可汗(ケツリ・カガン、在位:620年-630年)は小可汗の突利可汗(ドチリ・カガン)を遣わして、これを討伐させたが、敗北して軽騎で逃げ帰ったので、頡利可汗は怒り、突利可汗を十数日拘束したと言う。 翌年の貞観2年(628年)、西突厥で統葉護可汗が殺されると、西突厥が大いに乱れたので、乙失鉢の孫の夷男(イネル)は、薛延陀部落7万余家を率いて東突厥に附いた。 しかし、東突厥でも頡利可汗の政衰に遇い、夷男はその徒属を率い、東突厥に叛いて頡利可汗を攻め、これを大破した。

太宗 (唐)

ここにおいて頡利部諸姓の多くは頡利可汗に叛き、夷男に帰順して共に主に推戴しようとしたが、夷男はあえて即位しようとはしなかった。 時に唐の太宗は遊撃将軍の喬師望を遣わし、夷男を拝して真珠毘伽可汗(インチュビルゲ・カガン)とし、鼓纛を賜う。 夷男はとても喜び、遣使を送って方物を貢納し、牙を大漠の北の鬱督軍山下に建てた。 東は靺鞨に至り、西は西突厥に至り、南は沙磧と接し、北は俱倫水に至り、迴紇,拔野古,阿跌,同羅,僕骨,などの大部落は皆付属した。 更に、貞観3年(629年)8月、夷男はその弟の統特勒(トンテキン:官名)を遣わして唐に来朝。 太宗は厚く撫接を加え、宝刀及び宝鞭を賜う。 この頃より東突厥の権威は失墜し、次々と諸部が離反していった。

更に、貞観4年(630年)、遂に頡利可汗が唐によって捕らえられ、東突厥が一旦滅亡すると、夷男はその部を率いて東の故国へ還り、庭(本拠地)を都尉揵山(ウテュケン山)の北、独邏河の南に建てた。 東は室韋に至り、西は金山(アルタイ山脈)に至り、南は突厥に至り、北は瀚海(バイカル湖)に臨み、古の匈奴の故地をまるまる我がものとし、20万の兵を擁し、その2人の子を立てて南北部とした。 ここにおいてモンゴル高原の所有権は鉄勒の薛延陀部に移る。 この年、西突厥で肆葉護可汗(シヨウコ・カガン、在位:628年- 632年)が莫賀咄可汗(バガツゥル・カガン、在位:628年- 630年)を倒して西突厥を統一すると、大発兵して鉄勒に侵攻してきた。 薛延陀(セツエンダ、鉄勒の有力部族のひとつ。その中心氏族は一利咥氏)の夷男はこれを迎撃し、逆に肆葉護可汗を破り、貞観7年(633年)1月、薛延陀部は遣使を送って唐に来朝した。

帝国変遷

 ===== 続く =====

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