550年後、目覚めた英国王=04 =

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○ 

リチャードー1

= リチャード3世、遺骨から浮かび上がる壮絶な最期 =

(CNN、2014.09.18 Thu posted at 16:43 JST) ; 15世紀のイングランド王、リチャード3世の遺骨から、戦場での壮絶な最期の様子が浮かび上がった。 英レスター大学の研究者らがけがの跡を分析し、英医学誌ランセットに成果を発表した。 リチャード3世は1485年、王位に就いてからわずか2年後に32歳で戦死した。 遺骨はイングランド中部レスターに近い修道院に埋められたと伝えられていたが、20122年、駐車場となっていた修道院跡で見つかった。

研究チームによると、遺骨には死の前後に負ったとみられるけがの跡が11ケ所も残っていた。 論文をまとめたサラ・ハインズワース教授は「当時の武器で長時間にわたり、あるいは複数の敵の手で傷つけられたことが分かる」と話す。 分析には全身のCT(コンピューター断層撮影)が使われ、骨の損傷部分はさらにマイクロCTで詳しく調べた。 11ケ所のうち9ケ所は頭部のけがだった。 頭がい骨の下面に2つ、致命傷になったとみられる損傷があった。 1つは剣や矛のような武器による大きな切り傷、もう1つはとがった武器による刺し傷の跡だったという。

頭部のけがからはかぶとを脱いでいたことがうかがえる一方、腕や手に抵抗した際の傷がないことから、よろいは着けていたとみられる。 頭部のほか骨盤にも大きな損傷が残っていたが、当時のよろいは腰の部分も防護していたはずだ。 リチャード3世の遺体は馬の背からつり下げた状態で戦場からレスターへ運ばれたとの説があることから、この時に受けた損傷ではないかと、同教授は指摘する。

ただ、どの傷も重なり合ってはいないため、正確な順番は確認できなかったという。 遺骨は来春、発掘場所から近いレスター大聖堂に再び埋葬されることになっている。

◇◆ 生い立ちと”薔薇戦争“ ◆◇

  リチャード3世ことリチャード・プランタジネットは、エドワード3(前節参照)の曾孫で第3代ヨーク公とセシリー・ネヴィルの8男として1452102日、ノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城で産声を上げた。 この城は後に、スコットランド女王メアリー・ステュワートが幽閉され、処刑された場所でもある。 父はヨーク家のヨーク公リチャード・プランタジネットで、母は初代ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴル・オヴ・ラビーの娘セサリー・ネヴィルである。 ヨーク公夫妻は85女の13人の子供に恵まれたものの、うち6人は早逝、リチャードはその12番目。 

 いや  リチャードは、12人兄弟の11番目とも、11人兄弟の8番目ともいわれている。 かれの兄弟姉妹で成人したのは7人だけで、リチャードはその5番目だった。 実質的には末っ子であった。 母親セシリーが友人にあてた手紙によると、かなりの難産で逆子だったと言う。 おそらく、リチャードはこの出産の際の矯正で脊髄に強い後遺症(側弯症)を患ったと思われる。  父ヨーク公は、ランカスター家のヘンリー6世(在位1422-611470-71)の摂政をしていたが、エドワード3世(在位1327-77)のひ孫にあたっていたことから、次の王位を狙っていた。 

 リチャードが誕生した時勢は、曽祖父エドワード3世がフランスに反旗を翻したことによって始まった英仏百年戦争の終盤であった。 イングランド軍の劣勢が続き、1453年にはついに英国軍は敗退に追い込まれていた。 イングランド王国内では、当時の国王ヘンリー6世への不満が噴出し、リチャードの父ヨーク公が立ち上がった。 ヨーク家が白薔薇を、ランカスター家(ヘンリー6世)が赤薔薇の記章をつけていた事から「薔薇(バラ)戦争」と呼ばれ、王位をねぐる壮絶な権力争いが繰り広げられることになる。 この戦いの中、リチャードの父と次兄は戦死する。 長兄エドワードと母方の従兄弟ウォリック伯が勝利をおさめ、1461年、長兄はエドワード4世として即位、リチャードには、若干8歳でありながらグロスター公爵位が授与された。  しかし、1453年にヘンリー6世に息子が生まれて皇太子となると、ヨーク家の王位継承権は遠のいていった。  そこでヨーク公は、武力に訴えて王位継承権を主張した。こうしてはじまったのが「ばら戦争」である。リチャードが3歳のときのことで、かれはまさに、ばら戦争のさなかに育ったのである。

家系図ー1 有

   そのバラ戦争は、1455年から1485年までの30年間、断続的につづいた。 ヨーク家とランカスター家とのあいだのイングランドの王権をめぐる内乱である。 ヨーク家が白バラを、ランカスター家が赤バラを旗印にして戦ったことから、「ばら戦争」というロマンティックな響きのする名称で呼ばれている。 しかし余談になるが、この内乱は、もともとはそうは呼ばれていなかった。 「ばら戦争」という名称は、19世紀の作家サー・ウォルター・スコットが創出したものなのである。 彼がこの名称を思いついたのは、シェイクスピアの史劇『ヘンリー6世』にでてくるテンプル法学院の庭園の場面からだという。

 ヨーク家のヨーク公とランカスター家支持派の2代サマーセット公エドマンド・ボーフォートが言い争いをしたとき、ヨーク公がそこに咲いていた白バラを、サマーセット公が赤バラを手折って、その場にいた貴族たちに、どちらにつくか態度をせまった場面である。 この場面が絵画や挿し絵などにもよく描かれたことから、「ヨーク家の白バラ、ランカスター家の赤バラ」の鮮明なイメージが定着したとされている。 ところが、ヨーク家はバッジ、すなわち徽章の一つとして以前から白バラを使っていたが、ランカスター家のバッジには赤バラはなかった。 ランカスター家が赤バラをバッジとして使うようになったのは、内乱の最後のころで、ヨーク家の白バラに対抗したものだという。

サーマセット公

 因みに、図章のバッジとは、貴族が、家の紋章とはべつに、家や個人の「しるし」として定めたものであり、個人が定めたバッジは本人だけが使用できたが、家のバッジ――ヨーク家の白バラなど――として定めたものは、家臣や使用人の服や持ち物、軍旗などにも使われた。 また、ライバル両家の名称は、おのおのヨークランカスターの町に由来するが、両勢力の支持基盤とはほとんど関係がない。 ヨーク家はミッドランド(イングランド中部)とウェールズ境界地方(ウェールズ・マーチ)に勢力をはり、家門名のヨークシャーではランカスター家が優勢だった。

 ところでランカスター家とヨーク家は、ともにエドワード3の息子たち家系である。 エドワード3世には息子だけで7人いたが、そのなかの四男のジョンが婿入りしたランカスター公爵家(ヘンリー3世につながる王族)と五男のヨーク公爵家とのあいだに起った権力闘争が、ばら戦争だったのである。 エドワード3世の長男エドワード黒太子は、フランスとの百年戦争の英雄だったが、父の死の1年前の1376年に他界していた。そこで、王位は黒太子の息子リチャードに移り、かれがリチャード2世として即位したのだった。 ところが、リチャード2世は宮廷内の権力闘争で、1399年に廃位され、エドワード黒太子の弟ランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントの息子ヘレフォード公ヘンリー・オヴ・ボリンブルックが、ヘンリー4(在位1399-1413)として即位した。 そしてこのあとは、ヘンリー5(在位1413-22)、ヘンリー6(在位1422-611470-71)と、ランカスター家の王がつづいた。

ヘンリー6世

 ===== 続く =====

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