550年後、目覚めた英国王=05 =

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○ 

第3代ヨーク公

横暴を極める、このランカスター家の支配に異議を唱えたのが、リチャード3世の父ヨーク公リチャード・プランタジネットだった。

 プランタジネットの主張は、かれの父がエドワード3世の五男ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリーの息子であり、母が三男のクラレンス公ライオネル・オヴ・アントワープの血を引いていたので、自分のほうがヘンリー6世より王位につく資格が高い――というものだった。 一方、1450年代に入って、百年戦争でのイングランドの敗北が色濃くなってくると、諸侯たちの野心と闘争心は、イングランド国内の権力闘争、すなわちヨーク家とランカスター家の対立に向けられていった。

バラ戦争

◇◆ リチャードの幼少時 ◆◇

 エドワード3の長男エドワード黒太子は、フランスとの百年戦争の英雄だったが、父の死の1年前の1376年に他界していた。 そこで、王位は黒太子の息子リチャードに移り、かれがリチャード2世として即位したのだった。 ところが、リチャード2世は宮廷内の権力闘争で、1399年に廃位され、エドワード黒太子の弟ランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントの息子ヘレフォード公ヘンリー・オヴ・ボリンブルックが、ヘンリー4世(在位;1399-1413年)として即位した。 そして、王冠はヘンリー5世(在位;1413321– 1422831日)に受け継がれた。 そして、ヘンリー5とフランス王シャルル6の娘キャサリン・オブ・ヴァロアの子であるヘンリー6世が1422831日、生後9ヶ月で父の死によりイングランド王位を、同年10月には母方の祖父であるシャルル6世の死により、1420年のトロワ条約に従ってフランス王位を継ぐ= “英仏百年戦争” 前節イラスト参照=。 

 ヘンリー5世の死後、ジャンヌ・ダルクの勝利に始まるフランス・ヴァロア家の失地回復の中、イングランドにおける“百年戦争”継続の機運は失速していた。 若い国王はフランスとの平和政策を好むようになっており、同様の志向を持つボーフォート枢機卿、サフォーク伯ウィリアムの派閥を贔屓にしていた。 一方で、戦争の継続を訴えるグロスター公やヨーク伯リチャードはないがしろにされた。 ランカスター家とヨーク家は、ともにエドワード3世の息子たち家系である。 エドワード3世には息子だけで7人いたが、そのなかの四男のジョンが婿入りしたランカスター公爵家(ヘンリー3世につながる王族)となる。 五男はヨーク公爵家を継承して行ったのである。 この両家はイングランド王を拝命する有力貴族でもあった。

ジャンヌ・ダルク

 ヘンリー6世は、摂生の母が亡くなった1437年に成年となって親政を開始したが、すぐに一握りの寵臣達(お互いに対仏戦争に関する方策で意見が対立している貴族達)に宮廷を好きにさせてしまった。 1453年にヘンリー6世に息子が生まれて皇太子となると、ヨーク家の王位継承権は遠のいて行った。 しかし、 このランカスター家の支配に異議を唱えたのが、リチャード3世の父ヨーク公リチャード・プランタジネットだった。 彼の主張は、彼の父がエドワード3世の五男ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリーの息子であり、母が三男のクラレンス公ライオネル・オヴ・アントワープの血を引いていたので、自分のほうがヘンリー6世より王位につく資格が高い――というものだった。 一方、1450年代に入って、百年戦争でのイングランドの敗北が色濃くなってくると、諸侯たちの野心と闘争心は、イングランド国内の権力闘争、すなわちヨーク家とランカスター家の対立に向けられていった。  そこでヨーク公は、武力に訴えて王位継承権を主張する。 

 話をもどすと、ヘンリー6世は、成人してからも子供のように単純で、気弱な性格だった。 意志薄弱なところもあり、貴族たちをまとめて国を治めることがまったくできなかった。 彼は一日中、部屋にこもり、神に祈ってばかりいたという。 そこで、王に代わって王国の実権をにぎったのが、フランスのアンジュー公の娘で気の強い王妃マーガレット・オヴ・アンジューと、ランカスター家支持にまわった諸侯だった。 ところがヘンリー6世は、1453年、32歳のときに、ついに精神に異常をきたし、痴呆の状態となってしまった。 こうなると、王妃マーガレットとて、王の代弁者とは言えなくなった。 そのとき、摂政となって国の実権をにぎったのが、リチャードの父・ヨーク公リチャード・プランタジネットだった。 この結果、ランカスター派は宮廷から一掃されることになった。

アンジュ王妃

 ヨーク家にとっては、ヘンリー6世の気がふれたことを契機に、ここでいっきに王権を奪取したいところだった。 しかし、ヘンリー6世は16カ月後に、突然、正気をとり戻したのである。 こうなると形勢は逆転し、王妃マーガレットとランカスター派の巻き返しがはじまることになった。 そして今度は、ヨーク派が宮廷から追放され、ヨーク公に代わってランカスター家のジョン・オヴ・ゴーントの孫で王の又従兄になる2代サマーセット公エドマンド・ボーフォートが摂政となり、実権をにぎったのである。 ここにきて、ランカスター家とヨーク家の対立は激化し、ついに、諸侯を巻き込んだ内乱へと発展していった。 こうしてはじまったのが「ばら戦争」であり、リチャードが3歳のときのことであった。 リチャード(後の、リチャード3世)が育ったのは、このような宮廷内の権力闘争の絶えない時代だった。

 1455522日、リチャードが3歳のとき、ロンドンの北西約30キロメートルのところのセント・オールバンズで、両家のあいだの最初の激しい戦いがあった。 「第1次セント・オールバンズの戦い」である。 イングランドは国を二分するばら戦争へと突入していった。 この内乱は、ヨーク家のランカスター家にたいする挑戦という家系間の争いだけでなく、それを取り巻く貴族たちの、利害をめぐる戦いでもあった。 この戦いで、ヨーク公リチャード(リチャード3世の父)と彼の同盟者であるウォリック伯リチャードは、サマセット公エドムンド率いるランカスター派を打ち破り、エドムンドを殺した。 ヨーク公は国王ヘンリー6世を捕らえ、再び自ら護国卿となった。 

リ_ネヴィル

 ===== 続く =====

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