550年後、目覚めた英国王=08 =

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

エドワードー1

 ◇◆ ばら戦争の日々 ◆◇ 

   ノーサンプトンの戦いで要塞を守る事もかなわなくなったランカスター派の防衛軍は、ヨーク派の攻撃に撹乱されて隊列も維持できない状態で戦場から離脱した。 その結果、約300人のランカスター兵が殺され、国王ヘンリー6世は捕らえられ、再びヨーク派の操り人形となった。 しかし、この年の1230日、ヨークシャー南部のウェイクフィールドで、王妃マーガレットのひきいる1万のランカスター軍が、ヨーク公の8千のヨーク軍を待ち伏せして攻撃した。 「ウェイクフィールドの戦い」である。 この戦いで、ランカスター軍はヨーク軍を破り、ヨーク公を戦死にいたらしめた。 そして王妃マーガレットは、息子の王位継承権をとり戻す。 ただしここで、ヨーク公の長男であるエドワード(リチャードの兄)を後継者として残してきたのは重要な結果を生んだ。 エドワードは若いながらも傑出した戦闘指揮官であり最高の政治家であると証明し、結局はイングランド国王エドワード4として君臨することになる。

 その経緯は・・・・・・・・

ウェイクフィールの戦い/1460年12月30日= ヨーク公はすでに国王ヘンリー6世から、ヘンリー6世の死後、王位を自身とその相続人に継がせるという約束を取り付けることに成功していた。 ランカスター家の王妃マーガレットはこの力ずくの約束を受け入れることに不本意で、彼女の唯一の息子である王太子エドワード(当時6歳)に王位を継がせる決心をしていた。 ランカスター家の兵力がヨーク派のそれに勝るという状態で、彼女はヨーク公に立ち向かうために北進した。

この戦闘の様子については、ヨーク公の第2子であるラットランド伯エドムンドの「殺人」をクローズアップしてメロドラマ化したシェークスピアの戯曲『ヘンリー6世・第三部』が最も有名であるが、実際何が起きたかについて確かなことは全く分かっていない。 正確な日付は不明、また同様に正確な戦場の場所も不明であるが、最も有り得そうな場所はサンダル城(Sandal Castle)の北の、ウェイクフィールド・グリーンとして広く発展しているあたりである。 ヨーク公が死んだ現場に立てられたという記念碑は後の内戦で破壊された。

マーガレット王妃が実際に戦場にいた可能性は低く、サマセット伯ノーサンバランド伯が戦闘の指揮を執っていたと思われる。 ヨーク公の敗北は、増援部隊の到着を待つことなくサンダル城を出てランカスター派と対戦したり、自軍の力を実際よりも過大評価するなど、自身の過度な自信の結果であった。 しかし、ヨーク公がこの戦闘の直前にランカスター派に寝返ったネヴィル卿に騙されたというのは有り得そうことである。

エドムンド.jpg

  この戦いの後、ヨーク公、エドムンド、ソールズベリー伯の頭は棒に刺され、ヨークの城門ミックルゲート・バーの上に晒された。 ヨーク公の頭には紙の王冠を載せてあり、「ヨーク公にヨークの街を見下ろさせてやれ」という札を下げていた。 ヨーク派の首領であるヨーク公の死は、ヨーク派にとって非常に大きなダメージになった。 しかしヨーク公の長男マーチ伯エドワードは、1カ月余りあとの1461年2月2日、ウェールズとの境界に近いところであった「モーティマーズ・クロスの戦い」で、ランカスター軍に圧勝するのだった。 そしてウォーリック伯を中心とするヨーク派は、マーチ伯エドワードを国王へと動いたのである。 このころリチャードは、兄ジョージとともにフランスに逃れていて、ブルゴーニュ公シャルルの保護下に入っていた。

ところがここでまた、王妃マーガレットが反撃にでてきた。 そして1461年2月17日、彼女はセント・オールバンズであった2度目の戦い、「第2次セント・オールバンズの戦い」でヨーク軍を破り、夫ヘンリー6世を救出する。そのあとヘンリー6世とマーガレットは、いったんスコットランドへと逃れていった。  一方、ヨーク公の長男マーチ伯エドワードは、3月4日、エドワード4世(イングランド王)として王位を宣言した。 そして、エドワード4世はランカスター派との決戦のために北進を開始した。 イングランドでの主導権を得るため、ライバルであるヘンリー6世にとどめの一撃を加える事を決めたのは、エドワード4世自身だった。 ヘンリー6世(信心深くて平和主義であり、精神的に弱かったとも言われる)は、軍議には一切参加しなかったが、王妃マーガレット・オブ・アンジューが代理として、彼女の戦闘部隊(その長がサマセット公ヘンリー・ボーフォート)を使う自由を完全に認めた。

そして3月29日に、リーズの東のタウトンに広がる原野であった「タウトンの戦い」で、エドワード4世はランカスター軍を完全に打ち負かし、王位を確実なものとしたのである。 この戦いは激しい吹雪のなかであり、ばら戦争ばかりでなく英国史においても、最大でもっとも激しいものだったとされている。 この戦闘では、28の貴族(貴族のおよそ半分)を含む両軍合わせて5万とも10万ともいわれる数の戦士が入り乱れて戦い、戦死者の数は3万から4万にのぼったという。 残された数字によると、ランカスター派が42,000人、ヨーク派が36,000人の兵力だった。 この戦いは熾烈を極め、前線に押し寄せる両軍の兵によってしばしば前線の兵士が押しのけられたという程の、イギリス史上めずらしい(恐らく唯一の)戦いであった。

レビィ城

===== 続く =====

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