550年後、目覚めた英国王=17=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

劇中劇-1

 ◇◆王妃一派のたくらみ 王冠への道――光と影/◆◇

この動きは、先王が倒れたときから見られ、エリザベス一派と、エドワード4世に忠実だった家臣や顧問官とのあいだで、新国王の取り合いが始まっていた。 しかし、いまや王母となったエリザベス・ウッドヴィルとその親族は、少年王エドワード5世を、自分たちの手元におき、政治の実権をにぎろうとしていた。 エドワード4世は、新国王の摂政に弟のグロスター公リチャードを指名していた。

そのことについては、ここでは置くとして・・・・・・。 ふたりが結婚をしたのは1464年のことだったというが、この結婚が、のちのちに大きな問題となったである。 彼女は、手練手管で若いエドワード4世をとりこにしたと言われている。 エドワード4世よりも5歳年上だったが、かれと出会った時はまだ27歳の女ざかりだった。 彼女は最初、ランカスター家側のサー・ジョン・グレイと結婚したが、夫に先立たれ未亡人となっていた。 エドワード4世の妃エリザベス(前節参照)は、のちにリヴァース伯となったサー・リチャード・ウッドヴィルの娘で、厳密にいえば、貴族階級とはいえない家柄の出身だった。

マーガレット

彼らは、王妃の、国王への影響力を利用して、これまでも権力と富をほしいままにしてきたが、これからもそれを続けようとしていたのである。 すなわち、エリザベスの弟でリヴァーズ伯となったアンソニー・ウッドヴィルとサー・エドワード・ウッドヴィルの兄弟、それにエリザベスと先夫とのあいだに生れたふたりの息子、ドーセット候トマス・グレイとサー・リチャード・グレイである。 そのとき、かれをあやつり、王国の実権をにぎっていったのが、王妃エリザベスとその親族だった。 しかし、長年の戦いに明け暮れた日々のせいか、彼は性格が荒れ、王となってからは怠惰になって、国の統治に関心を示さなくなった。 エドワード4世は、王権を手にするまでは精力的で、行動的な戦士だった。

1470年にウォーリック伯とクラレンス公を謀反へと駆り立てたのも、「ウッドヴィル家の陰謀だった」とする見方もあるくらいである。 ウッドヴィル家の人間はこれまでも、国王に近づく者を排除してきた。 ここはなんとしてでも、新国王の体制を自分たちで固め、リチャードを形だけの摂政に祭りあげることが必要だった。 エリザベス一派にしてみれば、エドワード4世時代が終わったいま、ここで不器用なほど実直なリチャードに少年王の摂政として乗り込んでこられては、王国の実権を失うことになる。

このエリザベス一派の露骨な振る舞いに、ロンドンでかろうじて抵抗していたのは、先王にもっとも信頼されていた、侍従長で枢密顧問官のヘイスティングズ卿ウィリアム・ヘイスティングズだった。 次は、新国王のまわりを彼女の親族で固め、戴冠式をいそいで挙げ、いち早く新体制をつくりあげることだった。 いざというときには、王室の財宝を国外に持ちだすつもりでいたからである。 さらに、彼女の弟サー・エドワード・ウッドヴィルには、艦船を用意させた。 そして息子のドーセット候に、従臣たちを召集して軍備をととのえるようにと指示した。 王妃エリザベスは、エドワード4世は息を引きとるとすぐに、王室の財宝を押さえた。

エドワード5世

一方、エドワード4世が他界したころ、皇太子 エドワードエリザベス一派は、この時点ですでに新国王を掌中におさめていたが、ここでいっきに新体制をつくるつもりでいたのである。 そこで連絡をうけたリヴァーズ伯らは、大軍をともなってエドワードとロンドンへ向かおうとした。 (エドワード5世)は、叔父のリヴァーズ伯、異父兄のサー・リチャード・グレイらとともに、イングランド西部のサロップのラドゥロウ城にいた。

またヘイスティングズ卿は、グロスター卿リチャード(リチャード3世)にも「すぐにロンドンへ戻るように」と伝令を飛ばした。 ヘイスティングズ卿はリヴァーズ伯に、「不測の事態が起こりかねないので、新国王に随行する兵の数は2千以下にするように」と要請した。 そのころロンドンでは、すでにあちこちで、エリザベス派と反エリザベス派とのあいだの小競り合いがはじまっていた。

それから、新国王の戴冠式のために、北部の紳士600名とともに、ロンドンへとむかった。 さらにかれ自身も「摂政として新国王に忠誠をつくすつもりである」という強い意思をしめす書簡を枢密院へ送った。 リチャードはすぐに、ヨークで北部の諸侯や諸士をあつめると、新国王への忠誠を誓わせた。 そのときかれには、「国王が死んだ」と誤って伝えられたという。 そのリチャードがイングランド北部のミドゥラム城で「国王が倒れた」という知らせを受けたのは、4月のはじめころだった。

途中で彼らと合流し、新国王がロンドンに入城するときには、それにふさわしい、荘厳にして華麗な隊列を組まなければならないと考えていたからである。 期日ははっきりしないが、リチャードはヨークシャーを発つ前に、エドワード5世の一行に日程と道筋をたずねる手紙を書き送った。

英国地勢図

 ===== 続く =====

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