550年後、目覚めた英国王=21=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

王子二人

 リチャードのクーデター / 国王幽閉 ◆◇

 リヴァーズ伯らの謀反が失敗して事態が収拾すると、新国王のもとでの議会が数日間にわたって開かれた。 まず、新国王の居場所をどこにするかが議論された。 国王はまだ少年ということで、セント・ジョンの養育院がいいと言う者もいれば、ウェストミンスターだと言う者もいた。 そのとき、「ロンドン塔はどうだろうか?」と言いだした者がいた。 バッキンガム公だった。

ロンドン塔-1

 ロンドン塔はノルマン時代に起源をもつ堅牢な城塞で、当時はまだ王宮の一つだった。 城のもつ固くて暗いイメージが嫌われて王宮として使われなくなったのは、16世紀になってからである。 その後ロンドン塔は、しだいに政治犯の監獄として使われるようになり、血なまぐさい拷問と処刑のくりかえされる牢獄とみなされるようになった。 しかし15世紀には、まだそのようなイメージはなかった。 だから、バッキンガム公が何かを意図して言いだしたわけではなかった。 かれは、もっとも安全な王宮として、ロンドン塔を提案したのである。

新国王の住居はロンドン塔と決まった。 しかし結果的には、エドワード5世は二度とこの城から出ることがなかったのである。

リヴァーズ伯らを逮捕したあと、リチャードは何を考えただろうか。 王位簒奪が計画的だったとするならば、すでに次の手は考えていたはずである。 ・・・・・・・計画的ではなかったとしたら、どうなるだろうか。
傲慢不遜の王母とその親族を新国王から遠ざけたいま、リチャードは摂政として王国のすべての実権をにぎっていた。 イングランドの安寧と繁栄は、かれの手にゆだねられていた。 すべてがかれの思いのままとなった。 諸侯は、それぞれの思惑があるものの、いまのところは皆、摂政リチャードに敬意を払っている。 グロスター公リチャードに保護されたエドワード5世はロンドンに入城し、ロンドン塔に送られた。 ウエストミンスター寺院にて身辺の安全を計っていたエリザベス王太后は残りの子とともに庇護を求めた。

だが、カンタベリー大司教トマス・バウチャーはエリザベス王太后に対して、9歳になる王弟ヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーをロンドン塔にいるエドワード5世の元に送るよう説得した。 子供たちの身柄を確保したグロスター公は説教師やバッキンガム公を使って、故エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を違法であり、2人の子は庶子であると訴えさせた。

ヘンリー三代

  1483622日のエドワード5世の戴冠式の準備は進められ、この時点でグロスター公リチャードの護国卿の任期は終わることになっていた。 613日、グロスター公リチャードはヘーステング卿を呼び出すと、裁判なしでその日のうちに処刑した。 そして、その後、グロスター公リチャードは、エドワード5世と弟のヨーク公リチャードとともにロンドン塔に幽閉し、=2人は「塔の中の王子たち」  と呼ばれることになる=。 3ヵ月後の628日、議会はエドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの婚姻は無効であり、エドワード5世とヨーク公はエドワード4世の庶子であるとして、王位継承の無効を議決し、「王たる資格」(Titulus Regius)を発し、グロスター公を正式に国王リチャード3世であると宣言した。 

 そして グロスター公リチャードが推戴され、リチャード3世としてイングランド王に即位したのである。 716日に盛大な戴冠式が催され、それから リチャード3世は中部と北部への行幸に赴いて気前よく下賜金を施し、また自らの息子エドワード・オブ・ミドルハムプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)の称号を与えた。 この時以来、次期国王として王位を継承するべきイングランド国王(後にはグレートブリテン国王、連合王国国王)の最年長の王子がこの称号を与えられるようになり、王位の法定推定相続人の称号(皇太子)となった。 現在は女王エリザベス2の長男チャールズがプリンス・オブ・ウェールズである。

ヘンリーの系譜

蛇足ながら、囚われの身の2人の少年は姿を消し、リチャード3世に殺害されたと見られているが、少なくともグロスター公リチャードにはエドワード5世を殺害すべき動機はなく、よしんば その必要があればロンドン塔に幽閉する前に機会はいくらでもあった。 歴史上の推論だが、おそらくは王位継承権に疑義があったヘンリー7によって殺害されたと考えるべきであろう。 いずれの王位簒奪者にとってもエドワード5世と弟リチャードの存在は障害でしかなかったのは確かである。 このヘンリー7世とリチャード3世が刃を交わす“ボズワースの戦い”で薔薇戦争に決着をつける。 即ち、リチャード3世の戦死による敗北と、ヘンリー7世によるテューダー朝樹立という結果で幕を閉じのだが・・・・・・・。

ヘンリー7世 有

 ===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/04/20/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/04/22/

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
*当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp/

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中