550年後、目覚めた英国王=22=

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

バッキンガム

◆ バッキンガム公の反乱 ◆◇

傲慢不遜のエドワード5世が王母とその親族を新国王から遠ざけ、新王をロンドン塔に幽閉状態に置き、リチャード3世として即位した今、リチャードは王国のすべての実権を握っていた。 イングランドの安寧と繁栄は、かれの手にゆだねられていた。 すべてがかれの思いのままとなった。 諸侯は、それぞれの思惑があるものの、いまのところは皆、摂政リチャードに敬意を払っている。 リチャードには「薔薇戦争を勝ちぬき、王権をヨーク家にもたらしたのは自分だ」という自負があった。 いま、そのかれは甥でありイングランド王の経脈を管理下に置いている。 しかし、いつまで安泰だろうか。

 牢に閉じ込めたとはいえ、王母エリザベス一派はまだ生きている。 諸侯も、表面的にはリチャードに頭を下げるが、腹のなかでは何を考えているかわからない。 しばらくすれば、甥の頭上には、きらびやかな王冠が燦然と、まばゆいばかりの光をはなって輝くこともあり得る。 独裁を恐れる反勢力がランカスター家と合流し、戦を仕掛けてくる恐れは拭い去れない。 それにたいする警戒を怠ってはならないのである。 王母エリザベスの血縁者は、まだ生きている。 その支持者も、まだ隠れているだけだった。 王母は、国王の弟を聖域から出そうとしない。 彼女と先夫との子ドーセット候は、王室の財宝をもってフランスのブリタニーに逃げたままだった。

ポーフォート

先王エドワード4世に仕えていた枢密顧問官たちも、リチャードを全面的に支持しているわけではなかった。 リヴァーズ伯らの謀反も認めようとはしなかった。 枢密顧問官らは、リチャードの独裁を恐れ、いつ王母エリザベスらと手を結ぶかわからなかった。 実際、枢密顧問官らは、人を介してエリザベスの実家ウッドヴィル家の人間と接触しはじめていると言う。 しかしリチャードは、かれらの思惑どおりに事がすすむことを、黙って見ているわけにはいかなかった。

 リチャードは戴冠式とその後の議会にそなえて、自分の本拠地である北部のヨーク市に、軍隊を派遣するように要請し、やはりかれが信頼していた北部の有力者ネヴィル卿ラルフ・ネヴィルにも、同様の要請をした。 リチャードは、対抗しようとする勢力に、スコットランドを相手に戦ってきた北部の大軍を見せつけることで威圧し、かれの考えるところの新体制を確立しようとしたのである。 彼ははじめて、軍隊の必要性を感じたのである。 

トーマス・スタンリー

 1471年にヘンリー6世とその王子のエドワード・オブ・ウェストミンスターが殺害され、その他の者も命を落としたことで、ランカスター家の王位継承者としてリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世、前節イラスト参照)の存在が浮上していた。 ヘンリー・テューダーの父リッチモンド伯エドモンド・デューターはヘンリー6世の異父弟であるが、王位継承権自体は母マーガレット・ボーフォートからのものである。 マーガレットはエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントの子ジョン・ボーフォートの孫である。 ジョン・ボーフォートは出生時には私生児であり、後に両親が結婚して嫡出子となったが、ヘンリー4世の命によってジョン・ボーフォートの子孫の王位継承権は排除させられていた。 このためにヘンリー・テューダーの血統の王位継承権には疑義があった。

ヘンリー・テューダーは少年時代の大部分を包囲下にあったハーレフ城と亡命先のブルターニュで過ごしている。 1471年以降、エドワード4世はリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの王位継承権について軽視しており、幾度か身柄の確保を試みるだけだった。 ヘンリー・テューダーの母マーガレット・ボーフォートは2度再婚しており、最初はバッキンガム公の甥、その次はエドワード4世治世での要人の一人であるトマス・スタンリーと再婚して息子に対する支持を固めていた。 1483年、マーガレット・ボーフォートはエドワード4世の長女であり、弟たち亡きあとはヨーク家の相続人となったエリザベス・オブ・ヨーク(前節参照)とヘンリー・テューダーとの婚約を成立させた。

ジョン・ハワード

  リチャード3世に対する反抗は南部で起こった。 14831018日、バッキンガム公ヘンリー・スタフォード(リチャード3世の即位に貢献し、自らも遠縁ながら王位継承権を有する)がランカスター系のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの擁立を標榜して挙兵した。 ヘンリー・テューダーはフランスに亡命しており、ヘンリー・テューダーよりはエドワード5世か王弟を擁立すべしという意見具申が彼の賛同者からもあったが、バッキンガム公自身は両王子が既に殺害されていると認識していた。 南部における彼の支持者の一部が蜂起したが、時期尚早な蜂起であった。 リチャード3世は自領から北部の大軍を呼び寄せており、 代官ノーフォーク公ジョン・ハワードによってバッキンガム公と支持者集団の合流を阻止されてしまう。 バッキンガム公自身は中部ウェールズのブレコンで蜂起していた。 彼は南イングランドの叛徒との合流を図るが暴風雨によってセヴァーン川の渡河を妨げられ、ヘンリー・テューダーはイングランドに上陸したが形勢不利とみて引き揚げた。

 バッキンガム公の兵は飢えに苦しんで逃亡し、彼は裏切りにあって捕らえられた上、処刑された。 しかし、バッキンガム公の反乱の失敗はリチャード3世に対する陰謀の終わりにはならなかった。 ヘンリー・テューダーはフランス王の支援を受けて何時上陸して来るかもわからない。 また、身辺でも不幸が重なり、1484年に王妃アン11歳の王太子エドワードを相次いで亡くしていた。 政権を固守するためには、兄の遺児エリザベス・オブ・ヨークとの再婚を推挙する諸公もいたが、リチャード3世はこの考えを断念している。

ヘンリー7世ー1

 ===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/04/21/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2016/04/23/

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
*当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp/

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中